短歌の「異化」作用とは④

 今回からは、状況の「異化」とでもいえる、「異化」作用について、議論する。

 状況の「異化」とは何か。

 まずは、これら作品群の分析からはじめていこう。

 

  氷きるをとこの口のたばこの火赤かりければ見て走りたり

  あかき面安らかに垂れ稚(をさ)な猿死にてし居れば灯があたりたり

  くれなゐの百日紅は咲きぬれど此きやうじんはもの云はずけり

  わが庭に鶩(あひる)ら啼きてゐたれども雪こそつもれ庭もほどろに

 

                         斎藤茂吉 初版『赤光』

 

 斎藤茂吉初版『赤光』より、4首あげた。

 簡単に、散文的に解読したい。

 1首目。氷屋の男が店の前の路地で氷を切っている。その男のくわえている煙草の火が赤かった。だから、われは見て走ったのだった。

 2首目。赤い顔が安らかに垂れている子どもの猿。その猿が死んでいる。だから、その死んだ身体に軒先の灯があたっているのだった。

 3首目。あかいサルスベリが咲いている。けれど、ここにいる精神病の患者は黙ったままだった。

 4首目。われの庭でアヒルがないている。けれど、雪が積もっている、庭にうっすらと。

 

 実は、これらの作品について、すでに大辻隆弘が論考「確定条件の力」で、次のように論じている。

 長くなるが、関係の部分を、引用したい。

 

 この一首(「氷きる~」の歌―引用者)は夜道を駆けていたときの嘱目である。

(中略)状況はよくわる。しかし、その表現はいささか過剰だ。特に、この歌の下句「赤かりければ見て走りたり」という表現が、どこか過剰で読者にはいささか分かりにくい。

 この「赤かりければ」は、形容詞「赤し」の連用形に、過去を表す助動詞「けり」の已然形がつき、そこに接続助詞「ば」が付されたものである。已然形に「ば」がつくと順接の確定条件を表す。「~から」「~ので」という原因や理由を表したり、「~すると」という因果関係をはらんだ接続を表したりする語法。それが「已然形+ば」なのだ。この歌の場合、間接体験過去の助動詞「けり」を用いているところに少し違和感があるが、それを無視すれば、この第四句はとりあえず「赤かったから」と訳すことができる。

 煙草の火が赤かった。だからこそ、私はそれを見て夜道を走った。確定条件の語法に従えば、この歌の下句「赤かりければ見て走りたり」は、そう言っていることになる。

(中略)

 『赤光』における「已然形+ば」という確定条件を表す語法は、このように、外界の事象(原因)とそれに触発された自分の心情(結果)を強引に因果関係で結びつける。もちろん、その背後には、その二つを因果関係で結びつける茂吉なりの内的論理が隠されてはいる。が、その論理は往々にして読者には理解し難い。その結果、読者は歌の背後に、外界の事象に過剰に反応し、それに対して激しく心を震わせてしまう茂吉の奇矯な感動癖だけを見てとってしまうのである。

(中略)

 『赤光』には、情景と心情だけでなく、本来偶然に起こった外界の二つの客観的事象を強引に因果関係で結びつける、というような歌(「あかき面~」の歌のこと-引用者)もある。

(中略)この歌にも、第四句に「已然形+ば」の確定条件が使われている。「死にして居れば」の「し」は強意を表す副助詞である。よって、この第四句を口語に直すなら「死んでいるからこそ」とでも訳すべき表現となる。強力な理由を表す言い回しだと言ってよい。したがって、この歌の下句全体は「幼い猿が死んでいる。だからこそ、この小猿の身体に灯の光が当たっているのだ」と訳すことができる。ここで茂吉は「猿の死」(原因)と、「猿の身体に灯が当たる」(結果)という二つの事象を強引に「已然形+ば」によって結びつけているのである。

(中略)

 「已然形+ば」だけではない。『赤光』には「已然形+ど」や「已然形+ども」といった語法も頻出する。

 先の「已然形+ば」が「順接の確定条件」を表すのに対して、この「已然形+ど」や「已然形+ども」は、「逆接の確定条件」を表す。分かりやすく言えば「本来はAであるはずなのだが、結果は意外にもBになった」という感じのニュアンスを持った語法なのである。発話者の予想が裏切られたときに使われるのがこの言い回しなのだ。

(中略)

 この歌(「くれなゐの~」の歌―引用者)は、青年医師であった茂吉の、(中略)感傷を描いたものなのだろう。

 が、「サルスベリは咲いたけれど患者はものを言わない」という茂吉のこの論理には、いささか無理があるのではないか。このように茂吉が感じる背後には「サルスベリの花が咲いたのだから、患者もまた、当然、緘黙を解いてくれるはずだ」という希望的観測があろう。が、もちろんその予想には何の根拠もない。それは茂吉の勝手な思い込みであり、ひとりよがりに過ぎない。が、茂吉はそれがひとりよがりの思い込みであることに気づかない。(中略)

 このように『赤光』における「已然形+ど」や「已然形+ども」という言い回しには、茂吉の勝手な思い込みと、それが実現しなかったときの過剰な失望感を歌ったものが多い。

(中略)

 先の歌(「已然形+ば」の語法が用いられた歌のこと-引用者)同様、これらの歌(「已然形+ど」や「已然形+ども」といった語法が用いられた歌のこと-引用者)にも、茂吉の過剰な熱意や過剰な自意識が溢れ出ている。私たちは、この過剰さに驚きながらも、その背後にある青年の心のエネルギーに触れ、そこに胸打たれるのである。

 

 大辻隆弘「確定条件の力」『近代短歌の範型』(六花書林、平27)

 

 いかがであろうか。

 大辻は、掲出した歌について、どの歌も過剰な表現であることを指摘する。

 すなわち、一首目二首目であれば、「煙草の火があかかったから、われは走った」とか「幼い猿が死んでいるからこそ、その猿の身体に灯が当たっている」、とかといった、順接の確定条件による過剰さだ。

 三首目四首目であれば「サルスベリが咲いているのに、患者は黙ったままだ」とか「アヒルが鳴いているのに、庭に雪が積もっている」とかといった、逆接の確定条件による過剰さだ。

 こうした過剰さについて、大辻は、本来偶然に起こったはずの二つの事象を強引に因果関係で結びつけているためだ、という指摘をする。

 では、なぜ、茂吉は、こうした二つの事象を強引に因果関係で結びつけているのか、というと、そこには、「茂吉の過剰な熱意や過剰な自意識が溢れ出ている」ため、とする。そして、読者は、そんな過剰さに驚きながらも、「その背後にある青年の心のエネルギーに触れ、そこに胸打たれるのである」と結論づけるのである。

 大辻の論述をまとめるならば、以上のようになるだろう。

 この大辻の論考について、筆者は、全面的に首肯する。

 掲出した歌の表現は、たしかに過剰であり、その過剰さは、たしかに因果関係の強引さによるものであり、それは、茂吉の過剰な熱意や自意識によるもので、そんな若き茂吉の心のエネルギーに読者は胸を打たれるのだ、ということについては、全くその通りだと思う。

 しかしながら、ここでは、この過剰な茂吉の作品について、別な論点を提出したい。

 それは、すなわち、こうした過剰な表現によって、その結果、詠われている状況が「異化」されているのではないか、という論点である。

 次回は、この点について議論したい。