現代口語短歌の「異化」の手法①

 今年もよろしくお願いします。

 

 去年から、短歌の「異化」作用について議論している。

 そもそも、<短歌で日常を叙述すること自体、日常を「異化」している>、ということは言えるだろう。藤の花が畳にとどいていない、なんていうどうでもいい日常の出来事が、「短詩型」の「韻文」で叙述したことで、イマココでしかない、一回性のかけがえのない瞬間へと見事に「異化」されている、と主張できないことはない。

 また、短歌文芸と写真芸術のスナップショットとの親和性が高いということも、よく言われることではあるが、どちらも、日常の何気ないできごとを切り取ることで、文芸や芸術に「異化」している、という点では共通だ。

 短歌というのは短いから、一首のなかで、あれやこれやダラダラ叙述することはできない。焦点をしぼって「写生」をする必要がある。そこで、スナップ写真と同じように、構図や視点といったものを定めて、そして、短歌ならではの「韻文」にするための技巧を駆使して一首つくるわけである。

 正岡子規の藤の花の作品であれば、病臥しているところから藤の花を見ている、という構図をとり、そこから視点を動かさずに、韻詩として叙述したのだ。こうした、構図や視点を定めて「写生」する、という叙述の仕方が近代短歌では主流となり、現在に至っているといえよう。要は、写真のスナップショットのように、日常を静止画のように切り取るというのが、短歌のような短詩型文芸には合っていたということだ。そんな何気ない日常が、短い「韻文」によって叙述されることで、普段見慣れているコトやモノが「異化」されてみえる、というわけで、これこそが、短歌文芸の文芸としての意義というか、面白さなんだと思う。

 しかし、短歌の「異化」作用といっても、使っているのは、私たちが日常使用している日本語である。これが、文語であればまだしも、完全口語の日本語となると、これを「韻文」にのせるのは、結構ハードルが高い。話し言葉はさておき、書き言葉は「韻文」ではなく「散文」を書くために発達した日本語だ。だから、そんな書き言葉で「韻文」を叙述しようとしても、どうにもギクシャクした「韻文」になってしまう。

 そこで、現代口語短歌は、なんとかして、そんなぎくしゃく感をなくしつつ、一方で、口語ならではの面白さを「韻文」にとりいれ、短詩型文芸としての叙述を洗練させることで発展してきてきた、ということがいえるだろう。

 すなわち、日常のコトやモノを日常の日本語で「韻文」に嵌め込む作業によって、日常のコトやモノを「異化」していく試みが、現代の口語短歌の状況といっていいだろう。私たちが日常のモノやコトに接して、「楽しい」だの「悲しい」だの「面白い」だの何だのかんだのといった感動を言葉にするとき、そうした言葉がまさか五七五七七の「韻文」になって浮かんでいるわけではない。そうではなく、日常の感動を、あれやこれや体裁を整えて、「韻文」にしていく。そうした、あれやこれやの体裁を整える作業がすなわち、日常を「異化」する作用といえるのではないか、ということだ。

 しかし、現代口語短歌のなかには、そうした「韻文」の洗練さを目指す方向とは、ちょっと違った方向に進んでいるのも、ひとつの潮流として存在している。

 それが、前々回、前回、取りあげたような作品群である。

 

 赤羽駅から商店街を抜けていき子育てをする人たちに会う

                永井祐『広い世界と2や8や7』

 待てばくる電車を並んで待っている かつおだしの匂いをかぎながら

 携帯のライトをつけるダンボールの角があらわれ廊下をすすむ

 座り方少しくずれて気持ち良くピンクのDSを見ているよ

 

 

 三越のライオン見つけられなくて悲しいだった 悲しいだった

                 平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』

 渡さないですこしも心、木漏れ日が指の傷にみえて光った

 新しい服をくぐった風のなか梅は花ひらくこと思い出す

 1時間立って話しておやすみを言ったきれいなホテルの前で

 

 これらの作品群は、日常の何気ない状況を普段使っている日本語で「韻文」としてあらわしていることには違いがないが、どうにもこなれていない日本語を使っている。

 文芸作品として提出するのであれば、もう少し、日本語を洗練させて端正な叙述を目指すべきだと思うけれど、どうやらこれらの作品は、そうした指向をしているわけではない。洗練とか端正とかは違うやり方で、「韻文」として日常を「異化」している。

 では、それはどういうやり方か、というと、おかしな日本語で叙述することで、日常を「異化」しているのである。ただし、明らかにおかしな日本語でやると、意味も通じないし、はては、荒唐無稽、ハチャメチャになってしまうので、ほんのちょっとおかしくする。読者にとっては、ちょっと変だな、というか、モヤっとした感じがするけれど、どうしてモヤっとするのかは、パッと読んだだけではわからない。けど、とにかく何かモヤっとする。このモヤモヤを違う言い方をすると「違和」だ。すなわち、日常の見慣れているはずだったコトやモノなのに、作品を読むことで「違和」を感じるようになるのだ。この読者にちょっとした「違和」を与える、というのが、こうした作品群のねらっているところなんだと思う。

 この「違和」から、読者に抒情を感じさせればしめたもの、というか、作品としてはじゅうぶんに成功した、ということがいえるだろう。

 

 といったことを踏まえて、次の作品をみてみよう。

 永井の『広い世界と2や8や7』から。

 

 よれよれにジャケットがなるジャケットでジャケットでしないことをするから

 ライターをくるりと回す青いからそこでなにかが起こったような

 二つボタンスーツのボタン二つとも今日二つ目が取れてしまった

 

 1首目。「よれよれにジャケットがなる」。ここがおかしい。本来は、「ジャケットがよれよれなる」が普通の日本語。これを入れ替えると、途端に日本語として「違和」が生まれる、という歌。

 2首目。注目は上句。ライターを回す理由は、ライターが青いから、という理由はおかしい。けど、そう叙述している以上、そう理解するしかない。そういう認識を<主体>はしたけど、そんな認識をする<主体>に対して、読者はちょっとした「違和」を持つのだ。

 3首目。こちらも、意味は分かる。2つボタンスーツのボタンが、今日で2つ目が取れてしまって、みんなとれた、ということなのだろう。そうした状況を、おかしな日本語で繋げている。これは<主体>の認識に忠実に叙述したということで、という体裁ととることで、読者はこの作品に「違和」感を受ける、ということなんだろう。

 

 この3つの作品、どれもおかしな日本語で叙述されていることがわかったかと思う。

 読者に何かおかしい、とか、モヤっとした「違和」を与えることで、状況を「異化」してみせる、ということだ。

 しかし、それはそうなのだが、それぞれに「異化」の手法が異なっている。

 次回、こうした「異化」の手法をより細かく分析していくことにしたい。