現代短歌の「異化」について~まとめ

 ここまでの議論をまとめよう。

 

 短歌の世界で「異化」の手法として分かりやすいのは、日常にあるコトやモノを別いいかたで表現してみる、という手法である。いうなれば比喩表現のバリエーションなんだけど、そうやって別のいいかたで表現することで、日常の見慣れていたコトやモノが、違ってみえてくる、というところに表現の面白さがあるわけだ。

 今回、Blogで取り上げた主なものとしては次の作品があげられよう。

 

 カレンダーの隅24/31 分母の日に逢う約束がある

                          吉川宏志『青蟬』

 おびただしき鶴の死体を折る妻の後ろに紅の月は来りき

                          小池光『廃駅』

 エレベーターわが前へ昇り来るまでを深き縦穴の前に待ちをり

                          田村元『昼の月』

 突き当たりの壁ぱっくりと開かれてエレベーターの奥行が増す

                       穂村弘『水中翼船炎上中』

 きみの骨が埋まったからだを抱きよせているとき頭上に秒針のおと

                  平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』

 赤羽駅から商店街を抜けていき子育てをする人たちに会う

                    永井祐『広い世界と2や8や7』

 

 最近では、こんな作品にも出会った。

 

 鮭の死を米で包んでまたさらに海苔で包んだあれが食べたい

                  木下龍也『つむじ風、ここにあります』

 

 この作品でいえば、「鮭おにぎり」を「鮭の死を米で包んでまたさらに海苔で包んだあれ」と言い換えることで、「鮭おにぎり」というモノを「異化」している、ということができる。

 

 けど、こうした、コトやモノを別の言い方で表現するという「異化」の手法は、何も短歌の世界でしかできない、というわけではない。広く散文の表現技法としても普通にできるはずである。というか、散文のほうが、字数に制約がないから、より自由にコトやモノを「異化」できるはずである。

 そこで、短歌の世界だけ、すなわち韻文でしかできない「異化」というのがあるのではないか、という課題のもと、次にあれこれと議論したのが、現代口語短歌での「状況の異化」とでも呼ぶことのできる「異化」の技法であった。

 こちらは、韻文特有の調べを利用して、なんとなく読者にするすると読ませつつも、「おや」といったちょっとした「違和」を与えることで、状況を「異化」する手法である、ということを主張した。そして、そんな「状況の異化」については、次の4つに分けて議論したのだった。

 

・<語り手>の変化

・語順の入れ替え

・強引な接続

・流れる認識

 

 1つ目の「<語り手>変化」とは、<語り手>が<主体>と同一だったり、離れたりと、一首のなかで変化するということだ。換言すれば、視点が変わる、ということでもある。それを作品のなかで、何気なくやっているので、ちょっとした「違和」が生まれ、結果、その状況が「異化」されている、ということになる。このBlogでは次の作品を掲出した。

 

 携帯のライトをつけるダンボールの角があらわれ廊下をすすむ

                      永井祐『広い世界と2や8や7』

 座り方少しくずれて気持ち良くピンクのDSを見ているよ

 

 新しい服をくぐった風のなか梅は花ひらくこと思い出す

                    平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』

 

 2つ目の「語順の入れ替え」とは、字義通り、語順を入れ替えることで、「異化」する試みだ。

 

 よれよれにジャケットがなるジャケットでジャケットでしないことをするから

                      永井祐『広い世界と2や8や7』

 雪の日に猫にさわった雪の日の猫にさわった そっと近づいて

 体当たり猫がしている 猫が体当たりしている 光の会話

 

 3つ目の「強引な接続」とは、普通だったら繋がらない2つの断片を、無理やり繋げて一首にした、という作品だ。こうした「異化」の先行作品として、斎藤茂吉の若い頃の作品を紹介した。現代口語短歌では、次のような作品が、「強引な接続」といえる。

 

 

 君の好きな堺雅人が 電子レンジ開けては閉める今日と毎日

                      永井祐『広い世界と2や8や7』

 明日と昨日ぜんぜん違う毎日にとなりのインターホンがきこえてる

 風の声なまあたたかい横浜のコーヒーを膝にこぼしたズボン

 秋がきてそのまま秋は長引いて隣りの電車がきれいな夕べ

 横浜はエレベーターでのぼっていくあいだも秋でたばこ吸いたい

 

 4つ目の「流れる認識」というのは、<主体>の認識がとりとめも流れていく作品だ。とりとめがないから、日本語の断片みたいなもので構成されているわけだが、それが韻文となっているので、なんとなく読めてしまう、ということになる。また、認識には、<主体>の視覚の認識もあるし、頭のなかに思い浮かんでは消えるような認識もある。

 

 カーテンの隙間に見える雨が降る夜の手すりが水に濡れてる

                         仲田有里『マヨネーズ』

 昼過ぎにシャンプーをする浴槽が白く光って歯磨き粉がある

 てかてかと光った葉っぱがこの道の向こうに縦の信号の横

 構内に小さい庭がある駅を抜けてかわいい人と目が合う

 

 秋がきてそのまま秋は長引いて隣りの電車がきれいな夕べ

                      永井祐『広い世界と2や8や7』

 デニーロをかっこいいと思ったことは、本屋のすみでメールを書いた

 横浜はエレベーターでのぼっていくあいだも秋でたばこ吸いたい

 テナントだけがぐんぐん替わる駅ビルの長いエスカレーターを下りていく

 

 と、ここまでが、今回、議論した「異化」についてのまとめだ。

 もう少しうまい整理の仕方があったように思うし、他の歌人の作品からも掲出できたとは思うが、今回はこれが限界だ。

 ほかにも取り上げたい「異化」の手法があったが、整理しきれなかった。

 とりあえず、今回については、短歌特有の「異化」のバリエーションを提示することができた、というところまでを収穫としたい。