「歌のある生活」9国語教科書のなかの歌⑤

 中学校の教科書に載っている短歌作品を紹介しています。

 中学生向けだからといって、平易な歌ばかりではありません。近代から現代にうつるにつれて、理解が難しい作品も登場するようになります。大人が鑑賞するにも、かなり歯ごたえがあると思われる作品を読み解きながら、それにプラスして、中学生は短歌の「学習事項」も学んでいくことになります。

 ところで、前回まで、いろいろと短歌について学習したのですが、覚えていますか。ちょっと、おさらいしておきましょう。

 短歌は、五七五七七の定型詩で、文語と口語があるということ。「句切れ」も学習しました。それから「擬人法」「体言止め」といった修辞技法のついても学習しました。

 では、ほかにどんなことを学習するのでしょうか。引き続き、光村図書の国語教科書の作品をみていくことにしましょう。

 ぞろぞろと鳥けだものを引きつれて秋晴の街にあそび行きたし    前川佐美雄

 さあ、この歌、どうでしょう。果たして中学生がストンと鑑賞できるのでしょうか。というか、大人の私にも難しい。これ、さらっと読んだだけなら、楽しそうな歌だねえ、で終わってしまうのでしょうが、それでは鑑賞になりません。結句「行きたし」に屈折があります。ここが鑑賞の分かれ目と思えるのですが、授業ではそこまで教えるのでしょうかね。国語の先生に聞いてみたいものです。それから、修辞技法としては、「鳥けだもの」と「街」の対比から、「換喩」を教えるのだと思いますが、果たしてそれも中学生に理解できるのでしょうか。

 こうした難解な作品が教科書に載っているのをみると、教科書編集者の「今はまだわからなくてもいいよ、大人になってわかればいいよ」というささやきが私には聞こえてきます。

 はとばまであんずの花が散つて来て船といふ船は白く塗られぬ       斎藤史

 ああ、これは、そんなに難解ではない。ちょっとほっとします。情景をしっかりと思い浮かべることで鑑賞できます。とくに、色彩の対比。あんずの花の白と、海の青。それでも歌われている情景を読み取るのはやや高度かもしれませんね。ちなみに、この歌では、学習するべき修辞技法はないと思います。句切れもありません。

 新しきとしのひかりの檻に射し象や駱駝はなにおもふらむ        宮柊二

「象」と「駱駝」が登場してさきほどの「鳥けだもの」とやや重なります。こちらは「なにおもふらむ」と歌っています。これは擬人法です。擬人法になっていることで、歌の理解はやさしくなっています。それに「象や駱駝は何を思っているのかあ」と想像することで、さまざまな解釈が生まれやすいと思います。私は、「換喩」を読み解く「鳥けだもの」よりも、「擬人法」で象や駱駝の気持ちを想像するこちらのほうが、中学生向きに思えます。

 ジャージーの汗滲むボール横抱きに吾駆けぬけよ吾の男よ      佐佐木幸綱

 ちょっと早熟な感じがします。中学生でラグビーは早いです。この「吾」は、高校生以上でしょう。「吾の男よ」の隠喩も中学生に理解できるかどうか。けれど、中学校の教科書に載っている。なぜだろう。ここでも、「今はまだわからなくてもいいよ」という編集者のささやきが私には聞こえてきます。

 

「かぎろひ」2014年11月号所収

 

「歌のある生活」8国語教科書のなかの歌④

 中学校の国語教科書に載っている短歌作品を紹介していますが、いよいよ近代短歌のスーパースター石川啄木の登場です。

 

不来方のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心        石川啄木

 啄木を中学生に紹介するなら、この一首で決まりでしょう。

 一読、かっこいいですよね。

 このかっこよさを中学生に伝えたいのですが、さて、どうやって伝えましょう。

 歌の意味はさほど難解ではありませんので、中学生でも理解できるでしょう。各々の感性で鑑賞できると思います。

 けれど、せっかくですので、この短歌の技巧的なかっこよさを伝えたい。「ここのところ、かっこいいね」だけでは、何のことだがわかりませんので、なんとか理屈をつけて伝えなくてはいけません。

 上句は、まあ、そんなにかっこいいわけではないですね。ここに短歌の技法は施されていません。技巧的にかっこいいのは、何と言っても下句です。「空に吸はれし」と「十五の心」です。これが、かっこいいのです。

「空に吸はれし」のポイントは二つです。一つは、擬人法です。空に吸われる、というのは表現として常套な感じもしますが、定型にハマっているだけに、巧い擬人法と思えてしまう。そして、もう一つは「し」。今の言葉でいえば「た」。「吸はれし」と「吸われた」では、まったく語感が違う。そんな文語の文体のかっこよさを伝えたいですね。

 結句「十五の心」は、体言止め。体言止めがどうしてかっこいいのかと言えば、それは止めることで生まれる余韻。「十五の心」でプツリと終わることで生まれる余韻を味わってもらう。

 と、私が今、思いつくままにダラダラと言ったことを、実際の授業では、国語教師が理路整然と説明するのだと思います。

 次の歌に移ります。

 

街をゆき子供の傍を通る時蜜柑の香せり冬がまた来る          木下利玄

 この歌からは、短歌の技法として区切れを教えたい。

 中学生にとっては、この区切れの理解が難しいようです。どこで切れるのかが、どうもわからない。ですので、せめて教科書に載せる歌はわかりやすいものにしたいというのが、編者の意図でもあるでしょう。そこで、わかりやすい利玄の歌をここに持ってきたといえます。四句切れの名歌です。

 ちなみに、前回紹介した、若山牧水の「白鳥は…」も区切れのある歌ですが、何句切れかわかりますか。そうですね、「白鳥はかなしからずや」で切れますので二句切れです。

 さてさて、擬人法や体言止め、区切れを学習したところで、次にいきます。次は、女流歌人の登場です。

 

桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命をかけてわが眺めたり      岡本かの子

 岡本かの子の代表歌です。

 この歌で、字余りが登場しました。「いのち一ぱいに」のところです。ちっちゃい「っ」も一音とカウントします。けれどこの歌については、そんな技巧的なことよりも、二つの「いのち」の言葉の強さをしっかり味わってほしい。短詩ならではの迫力を受け止めてほしい、と私は思います。

 教科書には、こんな強い歌も載っているのです。中学生向けといってもあなどれません。

 

「かぎろひ」2014年9月号所収

 

「歌のある生活」7国語教科書のなかの歌③

 中学校国語教科書に取り上げられている短歌作品の話題です。

 最近の教科書の多くは、はじめに短歌入門として歌人のエッセイがあって、短歌というのはこんな感じの文芸なのですよ、と映画でいえば予告編のようなものを読んでから、本編である短歌の鑑賞にはいります。私の娘の教科書も、馬場あき子のエッセイに続いて、教科書の編集者がセレクトした十二人の歌人による十二首が載っています。

 さて、この十二首、どうやってセレクトしたらいいでしょうか。選者の好みというわけにはいきません。あるいは、何か特別な短歌観とか崇高な選者眼とかいったもので選ばれても困ります。そうではなく、短歌にはじめて触れる中学生に「短歌とは、こういうものだ」というような、スタンダードな作品であるということがまずは必要でしょう。それから、いろんな歌風のものをバランスよく取り上げることも重要です。文語ばかりとか、男性歌人ばかりとか、抒情歌ばかりとか、そういうわけにはいかない。現代までの短歌の流れを上手に敷衍できるバランス感覚が必要です。そのうえ、中学生の感性に合って、平易な歌であることも大切でしょう。興味も持てず、難しく、学習するうちに短歌が嫌いになってしまってはいけません。「短歌って、おもしろいなあ」と思ってもらわないといけないのです。

 と、まだまだほかにも選ぶ要素がありそうですが、とにかく、選ぶためにはいろいろと考えなくてはならない。感性のままに十二首を選ぶわけにはいかないのです。

 では、そんな編集者の意図を推察しながら、光村図書の国語教科書に載っている作品を順にみていくことにしましょう。十二首の順番は、作者の生年順ですので、順番に読んでいくことで、だんだんと近代から現代にうつっていくことになります。それから、すでに馬場あき子のエッセイで紹介された、正岡子規与謝野晶子斎藤茂吉北原白秋寺山修司俵万智はエントリーに入っていません。

 最初は、この歌人からです。

 鳳仙花ちりておつれば小き蟹鋏ささげて驚き走る           窪田空穂

 この歌は、定型をきちんとおさえていて調べもよく、短歌のお手本としては申し分ない作品です。中学生にも理解が容易く、ユーモアもあってなじみやすい作品といえましょう。まさしく教科書的な短歌といえましょう。

 次のエントリーは牧水の作品です。

 白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ       若山牧水

 この歌を教科書に載せた編集者の見識はすばらしいと思います。やはり、教科書で歌人の代表歌を紹介するのはとても大切なことと考えます。

 高校でも現代文の授業で短歌を学習するでしょうから、これからも牧水に出会うことはあるかもしれません。けどそうはいっても、これで牧水の短歌を味わうのは最後の生徒もいるかもしれない。そんな一期一会の出会いかもしれないのであれば、やはり、生徒には牧水の代表歌を紹介したい。そんな編集者の思いが私には伝わります。

 ちなみに、この歌では鳥や空や海の色彩に注目させて、その情景を十分イメージさせながら、作者の心情を理解する、といった学習になります。短歌観賞の王道である、作者の私情に踏み込んでいくわけです。

 

「かぎろひ」2014年7月号所収

「歌のある生活」国語教科書のなかの歌②

 前回からの続きです。

 中学校国語教科書にある馬場あき子のエッセイの話題でした。

 馬場は、中学生に紹介する近代短歌の作品として、はじめに正岡子規をとりあげたのでしたが、さて、子規に続く作品として誰を紹介しているでしょう。

 二人目も近代短歌の代表歌人です。そして、一人目が男性でしたから、二人目は女性の代表者がいいでしょう。となりますと、そうですね、この人になります。

 川ひとすぢ菜たね十里の宵月夜母がうまれし国美くしむ       与謝野晶子

 馬場は、子規の次に晶子を紹介しています。これは順当といえるでしょう。ただ、晶子を紹介するのはいいですが、前掲の歌を中学生に紹介するのは、私には、やや変化球のような気がします。私だったら、ごくオーソドックスに、この歌を中学生には紹介したいと思いますが。

 なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな

 それはともかく、馬場のエッセイに戻ると、こののち、斎藤茂吉北原白秋を紹介した後、現代短歌にうつります。馬場は、現代短歌のことを「今日の短歌」と言って中学生に説明しています。馬場なりの用語の選び方なわけですが、そんなところにも中学校教科書のエッセイを読む面白さがあります。

 では、その「今日の短歌」の代表歌人として、馬場は誰をあげているか。馬場は、寺山修司をあげています。

 けど、ここで少し考えてしまいます。現代歌人の代表として寺山をあげることに異論はないけれど、果たして中学生に寺山の歌はどうだろうかと。これが、高校生だったら、いいと思います。寺山の短歌にある詩情、あれは高校生にはぴったりでしょう。けど、中学二年生にはちょっと早いのではないか。もちろん、早熟な中学生なら、寺山の世界はハマるかもしれませんが、中学生がはじめて触れる短歌作品として、寺山はどうだろう…。

 けれど、ありました。中学生にも共感できるであろう、ぴったりの一首が。なんだかわかりますか? そう、この歌です。

 海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり      寺山修司

 これは、いいですね。中学生にも読解がたやすく共感もできるでしょう。中学生もじゅうぶん寺山の世界を味わうことができます。

 さて、馬場のエッセイも終わりに近づきます。最後、もう一人、現代の歌人を紹介しています。それは、俵万智です。

 俵万智の作品なら、中学生の感性にぴったりの歌がいっぱいあります。いっぱいありすぎて、どれを紹介しようか迷うくらいですね。

 馬場は、寺山修司の麦わら帽子に関連させて、俵万智の代表歌を紹介します。そうです、この麦わら帽子の歌です。

 思い出の一つのようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ      俵万智

 これを短歌入門エッセイの最後に持ってきたのでした。この歌で、それまでの近代短歌とは違う現代的な情感を味わいながら、それが口語によっているためであるとか、句またがりや句割れという技法にも関係があることにサラリと触れたらいいでしょう、というのが馬場のこの歌をとりあげた意図なわけですね。さて、このエッセイを入口として、いよいよ短歌の学習に入っていきます。

 

「かぎろひ」2014年5月号所収

「歌のある生活」国語教科書のなかの歌①

 私には中学2年生の娘がいます。

 中学2年生というのは、国語の授業で短歌を習う学年です。娘の国語教科書には、はじめて短歌に触れるであろう中学生にふさわしい(と思われる)作品が載っています。これがいろいろと興味を誘います。

 今回から数回にわたって、国語教科書のなかの歌について、いろんな角度からお喋りしたいと思います。

 中学生の短歌の学習ですが、大きく分けて二つの学習事項があります。それは、観賞と表現技法の理解です。生徒は授業で、いくつかの短歌作品に触れながら、この二つを学習していくことになります。

 けれど、はじめて短歌に触れるであろう中学生に、いきなり短歌作品を紹介して、さあ、読解して味わえ、といってもそれは難しい。そこで、最近の教科書は、いきなり短歌を観賞するのではなく、短歌ってこんな感じで読み解くといいですよ、というような内容のエッセイを載せて、そこから短歌について学習させるというやり方をしています。いわば、短歌学習へ生徒をソフトランディングさせようという編集方針なわけです。

 そのエッセイですが、娘の教科書は、馬場あき子による書き下ろしを載せています(娘の教科書は光村図書のもの。これから紹介する短歌も、すべて光村図書に拠ります)。

 さて、ここで皆さんにクイズです。馬場が、はじめて短歌に触れるであろう中学生に、最初に紹介する短歌作品は何でしょうか?

 やはり、何事も最初が肝心です。中学生にも味わえるような平易で、そしてなによりポピュラリティのあるのがいいでしょう。いきなり難解な作品を持ちだして、悪印象を持たれてはいけません。

 正解は、この歌です。

 くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはやかに春雨のふる      正岡子規

 まずは、近代短歌の代表歌人として正岡子規を馬場は紹介しています。もちろん、子規の歌なら何でもいいわけではなく、馬場は、いくつもの深い意図を持って、この作品を第一首目に持ってきているのです。

 その意図とは何かというと、まず、短歌というのは三十一音の定型詩ですよ、ということをおさえるわけです。はじめて短歌に触れるときに、破調や、句跨りの歌といった変化球はマズい。ちゃんと定型のお手本になる歌を紹介する。それから、声に出してみて調べがいいというのも、大切な要素でしょう。そうした意図を持って、馬場はこの歌を第一首目に持ってきているのです。

 まだ、あります。観賞するとき、読んでぱーっと情景が思い浮かぶというのが重要です。なぜ、情景かというと、教室の生徒がみんな同じ解釈になるためです。歌の解釈に揺れがないこと。中学生に歌の情景を絵に描かせたら、みんな同じ絵になるような歌といってもいいでしょう。こうした歌が一首目には良い。これが、作者の内面を詠んだ歌となると、読み手側にさまざまな解釈ができてしまう。もちろん、さまざまに解釈することは国語の学習では大切なことには違いがないのだけど、短歌のはじめで、それを学習するのは、まだ早い。まずは、みんなが共通の情景を思い浮かべることのできる歌を取り上げる。

 という意図を持って、馬場はこの歌をセレクトしたのです。そんなことエッセイには書いていませんが、恐らくはそういうことです。

 

「かぎろひ」2014年3月号所収

「歌のある生活」インターネットの世界の歌④

 インターネットの世界にはブログと呼ばれるサイトがあります。ブログとは、個々人の公開日記みたいなものと思えばいいでしょう。その日にあった出来事や折々の場面で自分が思ったことを書き込んで、ネットを通してあらゆる人に読んでもらうというものです。画像を張り付けている人も多いですね。

 けれど、このブログに、私的な出来事を綴るのではなく、世の中の事柄について、個々人の意見や記事を書きこむ人もいます。いうなれば、個人発行の不定期ミニコミ誌みたいなものでしょうか。それは、短歌のジャンルについても同様です。ブログに、短歌に関する評論や時評や書評を定期的に書きこんでいる方がたくさんおります。

 私は、そうしたブログを定期的に開いては読んでいます。無料で個人が発行しているミニコミ誌を定期購読しているみたいなものです。無料の定期購読というと、どうにも矛盾した表現ではありますが、そこにある書評や評論は、定期的に目を通す価値のある、書店に並んでいる短歌総合誌にひけをとらない、なかなかのクオリティだと私は思っています。

 現在私が定期的にチェックしているのは、東郷雄二による歌集の書評サイト「橄欖追放(かんらんついほう)」、奥田亡羊、田中教子、永井祐の各氏による一首評サイト「短歌周遊逍遥」、詩歌サイト「詩客」のなかの「短歌時評」といったページです。

 東郷雄二のブログは、現代短歌の最前線にある歌集をいちはやく評論するといった趣です。まさしくネット向きの書評といえるでしょう。現代短歌の書評になりますので、いきおい若手歌人の歌集を取り上げることが多いです。今、氏のブログを開いたら堂園昌彦の第一歌集の評がアップされていました。

 

 夕暮れが日暮れに変わる一瞬のあなたの薔薇色のあばら骨     堂園昌彦『やがて秋茄子へと至る』

 球速の遅さを笑い合うだけのキャッチボールが日暮れを開く

 奥田亡羊、田中教子、永井祐による「短歌周遊逍遥」というブログは、各人の関心のある歌を取り上げて、自由に評論しているものです。あるときは、奥田が大橋巨泉の「はっぱふみふみ」を大真面目に評論していたりして、こうした自由さもネット的と思いました。

 みじかびのきゃぷりてとればすぎちょびれすぎかきすらのはっぱふみふみ 大橋巨泉

 こんな戯歌を「なかなかの名歌」といい、「みじかび」と「はっぱふみふみ」が「季節感を共有して響き合っている」と評するなんて、まさに奥田の真骨頂かもしれません。

 今、ブログを開いたら、奥田は次の歌を紹介していました。

 たは易く人に許ししその過去を我よく知れり知りて溺れつ    小見山輝『春傷歌』

「詩客」というサイトは、短歌だけではなく、詩と俳句の創作も載せていますので、ネットで読む詩歌総合誌といった感じです。森川雅美が編集者として定期的に更新しています。そこにある「時評」欄は、編集者の依頼を受けた歌人が持ちまわりで書いています。

 今、ブログを開いたら、山田消児が現代短歌評論賞受賞作品を中心に論じていました。

 恐らく、私が知らないだけで、質の高い短歌ブログはまだまだあることでしょう。それだけ歌人の中には、創作だけではなく、評論への意欲も旺盛な人が多いということなのでしょう。

 

「かぎろひ」2014年1月号所収

「歌のある生活」インターネットの世界の歌③

 皆さんは、ツイッターをご存知でしょうか。これ、ごく簡単に言うと、一四〇字以内の短文をネット上で「呟い」て、それを投稿するというものです。橋下徹大阪市長の「呟き」に一〇〇万人ものフォロワーがいることがニュースになったりしましたが、登録をすれば誰の「呟き」でもネット上で読むことができます。私も橋下氏の「呟き」をフォローしていますので、一〇〇万人のなかの一人ということになります。

 私の場合はというと、橋下氏を含めて一二〇人ほどの「呟き」をフォローしています。となると、毎日一二〇人分の「呟き」が私のケータイに流れるのかというと、そういうわけではありません。一日に何度も「呟く」人もいれば、数ヶ月に一回しか「呟か」ない人もいます。橋下氏の例でいえば、氏は一日に三〇回以上「呟く」こともあれば、公務が忙しいと何日も「呟か」なかったりもします。

 私は橋下氏のほかに、全国にいる歌人の「呟き」をフォローしています。歌人であれば自作の歌を「呟い」て、それをツイッター上に投稿しているのではないかと思いがちですが、私がフォローしている歌人のほとんどは、自作の短歌を「呟く」ことはありません。これは、私たちの作歌を思い起こせばわかりますが、短歌を作るのと、思ったことを「呟く」のは、全然別の所作ということですね。それに、ツイッターに自作を投稿しなくても、自作を発表する場はほかにもあるということなのでしょう。

 しかし、自作を「呟く」ことはしなくとも、他の人の歌を「呟く」歌人は多くいます。つまり、自分が「あ、この歌いいな」と思った歌を、どんどんツイッター上で紹介するのです。ですから、私のケータイには、毎日、私の好みにかかわらず、いろいろな人の歌が流れています。例えば、今日だったらこんな歌が流れてきました。

 およげるにちがひなからん子供らの頭見えねど太鼓はきこゆ     木下利玄『紅玉』

 「見せてくれ心の中にある光」小沢健二も不器用な神        千葉聡『微熱体』

 わが頭から帽子をさらう海のかぜジョゼフ・フーシェは子ぼんのうなり

斉藤真伸『クラウン伍長』

 あたらしき生姜を擂ればこの夏の地霊かそけくわれに添ひくる   島田修二『春秋帖』

 こうしてツイッターでフォローしなければ出会うことのなかったであろう歌たちに私は毎日出会うのです。あるときは、なんと私の歌もツイッター上に流れてきました。

 春の日に組織を抜ける爽快よストラヴィンスキを聴いて愉しむ 桑原憂太郎「短歌人」(2013年6月号)

 私の歌を「呟いた」のは、「アゼリア街の片隅で」という名前の方。

 この方、私は一面識もありませんし、どなたか知りません。けど、この方は、面識のない私の歌を恐らくは「短歌人」誌で読んで「あ、この歌いいな」と思って、ツイッターに投稿したのでしょう。そう思うと、私はとても嬉しい気持ちになります。見ず知らずの方に私の歌が届いたのですから。

 もしかしたら、この「かぎろひ」誌にある歌もまた、誰かがツイッター上で「あ、この歌いいな」と思って「呟い」ているかもしれません。私たちが知らないだけで、インターネットの網の中に皆さんの歌が漂っているかもしれないのです。

 

「かぎろひ」2013年11月号所収