口語短歌とは何か④

4 口語短歌と〈私〉

 前回までで、明治期の口語短歌のはじまりから、昭和の初期までやっとたどり着いたのだけど、せっかく言文一致運動や自然主義文学にふれたのだから、もう少し、口語短歌の当時の革新性について述べたいと思う。

 すなわち、口語短歌というのは、単に「話しているような書き言葉による短歌」ではなくて、わが国の韻詩文芸の叙述について、重要なエポックになったのだ、ということを述べていこうと思う。

 

・短歌の読みの作法とは

 前回、正岡子規の次の作品を掲出した。

 瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり

                        正岡子規『竹乃里歌』

 この作品は、近代短歌の黎明期の名歌であり、いろんな論点で分析ができようが、今回は、「視点」について考えてみよう。

 藤の花ぶさを見ているのは誰か。つまり、誰の「視点」で藤の花ぶさをみているのか。

 というと、正岡子規、といいたいところだが、それは違う。恐らく、子規は病床で花ぶさを見ていたとは思うが、この作品で見ているのは、〈主体〉である。

 この〈主体〉、小説の世界なら、〈作中人物〉とか〈主人公〉とかいう呼び名で呼ばれたりするが、短歌の世界では慣例的に〈主体〉という用語が使われている。

 では、子規は何なのか。というと、子規は、この作品を叙述している〈作者〉だ。なので、〈作者〉と〈主体〉は別人なのだ。

 ここの部分、小説の世界だった、わりとすんなり理解できるのだが、短歌の世界だと、いまひとつストンとおちない。それは、どうしてかというと、やはり自然主義文学の影響が現代でも色濃く残っているからだろうと思う。

 つまり、田山花袋の『布団』では、田山花袋自身のことを赤裸々に叙述している、というような自然主義文学の影響を、近代短歌はいまだに引きずっているからだ。この影響による読み方が、令和の世の中になっても、基本的には変わらない短歌の世界のスタンダードとなっている。

 小説世界ならば、例えば、太宰治の『人間失格』の〈主人公〉を、太宰治そのものとして読むことは、昭和の時代ならともかく、今の時代は、もうないだろう。だから、現代は、〈私小説〉といえども自然主義文学から脱却しているといっていいのだろうけど、どういうわけか短歌の世界はそうなっていない。花ぶさを見ているのは子規という前提で、作品を読んで鑑賞している。つまり、短歌の世界は、いまだに、近代を脱却していないのだ。というのが、筆者の主張だ。

 と、こうやって主張してみたけど、多分、まだストンとおちていないんじゃないかなと思う。つまり、そんなこといわれたって、藤の花を見ているのは、子規に違いないでしょ、というわけだ。なんでそう、かたくなまでに思ってしまうのか、というと、これがまさしく近代短歌の〈私性〉と呼ばれているもので、短歌の登場人物の〈私〉というのは、とりもなおさず〈作者〉である、という了解ごとのせいなのだ。

 いま、了解ごと、と、いったけど、読みの作法、といってもいいだろう。つまり、作品のなかの〈主体〉と〈作者〉を同一視して読むのが、短歌の世界の了解事項、ようは、作法なのである。

 さて、ここまでの議論を、今度は、叙述をしている者に注目して考えてみよう。

 この子規の作品を叙述しているのは誰か。というと、これは、先ほど述べたように、〈作者〉だ。つまり、この作品でいえば、正岡子規ということだ。

 しかしながら、この叙述をしている者、これは〈作者〉なのだけど、作品のなかで、藤の花ぶさが畳の上にとどいていない、と語っている者は誰か。というと、これは、小説の世界でいうところの、〈語り手〉となる。

 

・〈語り手〉とは何か

 小説の世界では、叙述している〈作者〉が、その小説の中では、〈語り手〉となってストーリーを展開している、という体裁をとる。

 たとえば、「メロスは激怒した」という一文であれば、〈主人公〉はメロスだが、その一文は〈語り手〉が語っている、というように解釈する。なんでわざわざ、〈作者〉ではなく、〈語り手〉なんていう新しい呼称を出しているのかというと、小説の世界というのは、あくまでも、現実世界ではなくフィクションの世界なんだから、そんな現実世界ではないところに、現実世界にいる〈作者〉という呼称を使うと、議論がややこしくなる、という理由からだ。

 そこで、小説の世界では〈作者〉ではなく、〈語り手〉が話をすすめていく、という体裁をとる。

 ただし、この〈語り手〉というのは、小説の世界が出現する前から既に存在していたといえる。たとえば、「むかし、むかし、あるところに~」ではじまる昔話やおとぎ話の類は、まさしく〈語り手〉がいてはじめて成り立つ物語だったろう。

 あるいは、もっとさかのぼれば、太古の昔に成立した、神話の類も〈語り手〉が語って生まれたものだったろう。そして、神話の〈語り手〉というのは、まさしく神の「視点」で語るというものだった。それは、日本神話に限ったことではなくて、そもそも物語のはじまりというのは、そういうものだったろう。例えば、ギリシャ神話でもローマ神話でも日本神話でも何でもいいけど、そのはじめは、誰かが神の「視点」で語ったことが伝承されて、そのうちにそれぞれの文字で表して、石だったり紙だったり木簡だったりにのこした、ということだったろう。

 そんな〈語り手〉だったのだが、小説の世界で注目されはじめたのが、明治期の言文一致運動であった。そこでは、西洋小説を翻訳する時に、いったい、この小説を誰に語らせたらいいのかが大問題となった。

 もし、従来の文語体でいいのなら、これまで同様に、神の「視点」による〈語り手〉で語らせればよかった。「むかし、むかし、あるところに~」の世界である。しかし、話し言葉のような書き言葉で書こうとするなら、この〈語り手〉は、一体、誰なのか、という問題が浮上したわけである。

 そして、前回までに議論してきたように、〈語り手〉をどういう人物にするかで、文末表現が大きく変わっていったりもしたのだった。

 ここまでの議論で〈語り手〉の存在について分かったところで、議論を「視点」にもどそう。

 一人称小説なら、登場人物の〈私〉が小説のなかで語るというのが前提だから、〈語り手〉は、〈主人公〉ということになる。ここでは、〈主人公〉の「視点」でストーリーは展開するということになる。〈主人公〉が見えていないものは、語られない、というのが叙述のルールということになろう。

 一方、三人称小説となると、〈語り手〉は、〈語り手〉の「視点」で小説のなかで語る、ということになる。この〈語り手〉の「視点」であるが、ある時は、物語の世界のことはなんでも分かっている神の「視点」だったり、あるいは、〈主人公〉と同じ「視点」だったり、あるいは、〈主人公〉と同じものを見ているのだけど、少し「視点」がずれていたり、とさまざまだ。

 そうやって、小説の世界は、明治期以降、進展していったのだ。

 

・短歌の世界の〈私〉

 では、この〈語り手〉の「視点」を短歌作品になぞらえてみよう。

 先ほどの、子規の作品ではどうなるだろう。

 花ぶさを見ているのは、病床にいる〈主体〉となる。そして、その「視点」は、〈主体〉のそれだ。なので、〈語り手〉も〈主体〉ということでいいのか。

 というと、これは「わからない」というのが、解答になるだろう。つまり、〈語り手〉は〈主体〉なのか、それとも、別に存在するのか、どちらともいえるのだ。別の言い方をすれば、この作品は、一人称作品でもあるし三人称作品でもある、ということである。

 これは、どういうことかというと、短歌作品というのは、文字通り短い作品だから、人称がわからないことがある、ということなのだ。

 だから、〈主体〉が〈語り手〉となって語っているといえるし、あるいは、そうじゃなくて、〈語り手〉が〈主体〉と同じ「視点」で語っている、ということもいえるのだ。

 ただし、短歌の世界は、〈私〉の「視点」で詠う、というのが慣例となっているから、この子規の作品も、〈私〉が語っている、と言われることが多い。というか、それが当然として鑑賞されていた。そして、そこでの〈私〉というのは、とりもなおさず〈作者〉のことである、と了解される。というのも、それやって了解して読むのが、短歌の読みの作法だからだ。

 そういうわけで、この作品は、病床にあった正岡子規が、その病床から見た「視点」によって詠っていると解釈される。だからこそ、この作品は、病床から見上げた「視点」で、しかも、寝ているのだからじっと「視点」が動かないことによる描写、つまりは写実性の強い作品であると評され、はれて名歌の仲間入りとなっているのである。

 

・短歌の「視点」とは

 短歌作品の〈主体〉とは、〈私〉のことであり、その〈私〉とは、とりもなおさず〈作者〉のことである、というのが、近代短歌の読みの作法、であった。ということは、先に述べた。

 けれど、作品の叙述は〈私〉の「視点」なのか、〈語り手〉の「視点」なのか、という問いをたてて短歌作品を読むと、とたんに、あやしげな作品になる、というのがある。

  東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる

                        石川啄木『一握の砂』

 啄木の名歌である。砂浜で、〈主人公〉である〈私〉が、蟹とたわむれているのだが、ここで問題にしたいのは、上句だ。「東海の小島の磯の白砂に」というのは、誰の「視点」か。というと、そのすぐ次に「われ」があるんだから、〈私〉すなわち〈主体〉の「視点」に決まっているじゃないか、と言われそうだけど、〈主体〉は泣きながら蟹を見ているのだ。これはどうもあやしくないか。

 先ほどの子規の作品であれば、初句から最後まで、「視点」は動かなかったが、啄木の歌は、蟹とたわむれている〈われ〉の「視点」の他に、別の「視点」がありそうな感じがしないだろうか。

 この作品の上句は、一般的には、東海の小島の磯の白砂、と「の」で繋げながら、「視点」がどんどん焦点化していく、という解釈がなされている。カメラのズームアップみたいなものだ。最近では、グーグルアースで、グーンとズームアップして啄木が蟹とたわむれている姿をとらえるみたいなイメージではないか。しかし、そうなると、その「視点」は、ますます〈私〉の「視点」じゃなくなってくるのだ。

 どうだろう、誰の「視点」か、という問いをたてると、名歌もなんだかおかしな作品に思えてこないだろうか。

 もう一つ示そう。

 ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲

                          佐佐木信綱新月

 こちらも名歌である。この歌もまた、「の」でつながっている。

 この作品の〈主体〉は、薬師寺の前で、薬師寺を見ているのだろう。その薬師寺の塔の上に雲を見つけた、というわけである。こちらもまた、カメラのズームがイメージできそうである。薬師寺を遠景で撮りながら、塔の上の方にカメラがよっていて、最後に、ひとひらの雲を撮った、というわけだ。さて、この「視点」であるが、こうした「視点」の焦点化というのは、普通の人間の「視点」の移動を考えても、不自然であるということがいえるであろう。あまりに、作為的ではないか。では、この作為的な「視点」の移動というのは、一体、誰の仕業なのか、というと、やはりこれは、〈私〉ではない人物、すなわち〈語り手〉の存在で考えるのがいいのではないか、と思われるのだがどうだろう。

 最後の例として、グッと現代的な作品から〈語り手〉を考えよう。

 雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁

                        斉藤斎藤『渡辺のわたし』

 ここまでくると〈語り手〉が語っているのが明らかである。

 この作品、例えるなら、ハンドカメラが、雨の県道を映しながら移動して、のり弁を発見してズームで静止した感じである。では、こうしたカメラの動き、すなわち〈主体〉の視点を操作しているのは誰か。というと、それは〈作者〉といいたいところだが、違う。〈語り手〉である。作品のなかの時間を操るのは〈語り手〉の役割である。繰り返しになるが、〈作者〉は、それを叙述する役割だ。〈語り手〉は、ある時点は詳しく語り、ある時点は端折って語る。たまに、読者に話しかけたりもする。こうした作品のなかの時間の操作や自在な語りは、〈主体〉にはできないことであり、〈語り手〉の特権といえる。