短歌の「異化」作用とは⑥

 この多様化された現代で、どうにも古くさく、さらに現代口語でやるのは実に使いにくい短歌の存在意義とは何か。すなわち文芸としての短歌の現代的意義は何か。なんてことを考えると、もう、「異化」作用くらいしかないだろう、というようなことを、このテーマの冒頭で述べた。

 口語を使うくせに、散文じゃなく韻文で、しかも、たった一行で終わる短詩型の短歌が他の文芸より優れていることなんて他にあるのかしら、と考えると、やはり、散文ではできない何かしらの表現技法にいきつくのではないかと思う。

 そんな文芸として残された短歌特有の意義とでもいえる「異化」作用について、恐らく、かなり意識的に作品化している歌人として、永井祐をあげることができるだろう。

 

  赤羽駅から商店街を抜けていき子育てをする人たちに会う

                   永井祐『広い世界と2や8や7』

  待てばくる電車を並んで待っている かつおだしの匂いをかぎながら

  携帯のライトをつけるダンボールの角があらわれ廊下をすすむ

  座り方少しくずれて気持ち良くピンクのDSを見ているよ

 

 どの歌も平易な日本語だし、表現も簡単で、日頃短歌を読まない人でも、するすると読んで理解ことができるだろう。

 けれど、何か、居心地の悪さがしないだろうか。何か、変な感じがしないだろうか。

 それは、普通とは違う文章、あるいは、散文のようで散文では、こういう書き方をしない文章、といった感じか。

 この居心地の悪さ、というか、変な感じ、というのが、まさしく短歌の世界の「異化」なのだ。

 それは、日常の見慣れた状況が叙述されているはずが、なんか、普段とは違う書き方をしているので、日常とは違う状況のように感じる、といったものかもしれない。なので、短歌の「異化」とは、日常で見慣れたものが、作品を通して、違ったものに見えてくる、ということだ。

 今回は、その見慣れたものを、「状況」としてとらえて、どういうやり方で、「状況」が「異化」されているか、をみていきたい。

 

 一首目。どこが変かというと、「子育てをする人たち」だ。普通は、こういう言い方はしないだろう。日本語を学習している外国人が使う表現のようである。こういうおかしな日本語の使い方をすることで、親子が歩いている風景に会った、あるいは、子育て真っ最中の友人に会いにいった、という、ごくありふれた日常の光景を、「異化」しようと試みているのである。また、「赤羽駅」という固有名詞も、まったく効いていない。会ったのが赤羽である必然性はまったくない。普通の商店街のある街だったらどこでもいい。だって、ありふれた日常を「異化」するための作品なんだから。日常的ではないというか、グッとくるような街の名前だったらかえって困るのである。なので、この初句も、状況を「異化」するために考えられている、といえばそうである。

 二首目は、「待てばくる電車」。こちらも、ありふれた日常の光景を韻文にのせて、日常を「異化」する試みだ。「待てばくる電車を並んで待っている」と、リズムよるするすると読むと、そうだなあと納得してしまいそうになるが、待っても待たなくても電車はやって来るので、「待てばくる電車」という表現は、日本語して危うい。そんな、ちょっとした読者の違和感を利用して状況を「異化」しようとしている、といえよう。

 さて、ここまでは、わりと簡単に説明ができたのだが、三首目からは、かなり複雑な様相となる。

 三首目。現在形終止が2つある二句切れということでいいだろう。省略している部分を補って散文化するならば、「携帯電話のライトをつける。すると、ダンボールの角があらわれて、廊下を進む」と言った感じになる。

 どうであろう。どうにも変な文章とはいえないだろうか。

 携帯のライトをつけたり、廊下を進んだりしているのは、<主体>である。ここに疑義の余地はない。では、この作品を語っているのは誰か。と、いうと、これは<語り手>としか言いようがない。

 この<語り手>の議論は、去年から、これまでにさんざんしたから、もう蒸し返したくないんだけど、この作品の変なところを解明するために必要な概念なので、ちょっとだけ、<語り手>のおさらいをしておく。

 掲出歌は、いつものこの2つ。

 

  瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり   

                               正岡子規

  終バスにふたりは眠る紫の〈降りますランプ〉に取り囲まれて                                   

                         穂村弘『シンジケート』

 

 子規の作品であれば、藤の花を見ているのは<主体>で、その<主体>の様を<主体>と同じ視点で語っているのが<語り手>で、それを叙述しているのが<作者>ということになる。ただし、この作品は、<主体>と<語り手>は同じ<私>として読むことが可能ではある。つまり、<主体>と<語り手>を同一人物として読むことができるし、なんなら、<作者>も同一として読んだっていいだろう。というか、そうやって、現在までこの作品は解釈されていよう。

 しかしながら、穂村の作品は<主体>と<語り手>は同じ<私>として読むことはできない。<主体>は終バスで眠っている二人のどちらかで、<語り手>は、同じバスに乗っていて<主体>の様子を<主体>とは別な視点から観察している誰か、である。そして、<作者>は、それを韻文にして構成を整えて叙述している、というわけである。

 この<作者>と<主体>と<語り手>の3人の<私>という概念は、小説世界なら、より分かりやすい。

吾輩は猫である。名前はまだ無い。」という書き出しで始まる小説であれば、<作者>は夏目漱石で、<主体>は猫だ。そして、その猫の見たことを語っているのは<語り手>だ。なぜなら、猫は日本語を解せないからだ。もちろん<作者>の漱石が語っているわけではない。漱石は、書斎で原稿用紙に向かっているので、物語世界に存在することはできない。ただし、「吾輩は猫である」と<作者>が叙述している以上、<主体>と<語り手>は、同一人物というか同一の猫として読むことは可能である。というか、私たちは、そういう理解のもとで読んで、あれこれ解釈している。

「メロスは激怒した。」という書き出しだったら、叙述しているのは<作者>で、メロスは<主体>で、「メロスは激怒した」と語っているのは<語り手>だ。これが「私は激怒した」という書き出しだったら、<主体>と<語り手>を同一人物として読むことは可能だ。

 と、ここまでが、<主体>と<語り手>の<私>についてのおさらいだ。

 

 では、これを踏まえて永井の作品に戻って、3首目をもう一度、読んでみよう。

「携帯のライトをつける」の部分は、<主体>と<語り手>が同じ視点で同じものを見ている。つまり、携帯のライトをつけている<主体>と、ほぼ同じ場所で、<語り手>が語っている。しかし、ダンボールの角があらわれた辺りから、この視点がずれる。つまり、「廊下を進む」というのは、完全に<語り手>と<主体>が離れている状態だ。なぜなら、もし、同じ視点であったら、廊下を進むのではなく、「廊下を歩く」となるはずだからだ。

 つまり、上句と下句で<語り手>の視点がズレているのだ。これが、違和の原因だ。

 このことは、主語を補うとより分かり易くなる。

「私は携帯のライトをつける」は、日本語してOKだが、「私は廊下を進む」は日本語として変だろう。普通、日本語ではこういう使い方はしない。「彼は廊下を進む」ならOKだ。あるいは、「私は廊下を歩く」ならばいいだろう。

 なので「私は廊下を進む」といった、ほんのちょっとした微妙な日本語の違和が、こっそり隠されているのだ。

 じゃあなんで、そんな違和が隠されているのか。

 というと、たとえば、

 

  携帯のライトをつけるダンボールの角があらわれ廊下を歩く    改作

 

 だったら、あまりに普通過ぎて詩歌にならないと、作者は判断したのではないか。だから「歩く」ではなく、違和のある「すすむ」に変えることで、この状況を「異化」したのではないか、というのが、筆者の仮説だ。

 

 4首目の違和感も、3首目と同じ構造の違和感だ。どこか、日本語の使い方がおかしい。

 では、どこがおかしいか。

 というと、これは、「くずれて」のところ。

 ここは、「くずして」が正しい。

 つまり、「私は、座り方を少しくずして、ピンクのDSを見ているよ」が正しいわけで、「私は、座り方を少しくずれて、ピンクのDSをみているよ」では、日本語としては完全な誤りとなる。

 電車か地下鉄かに乗っていて、<主体>がピンクのDSを漫然と見ている状況を歌にしたのだろう。そして、3首目と同じく、「くずれて」ではなく、「くずして」と、<主体>と<語り手>の視点を、ズラしたところで、状況が「異化」されたのだ、というのが筆者の主張である。

 ただし、この作品については、<主体>は<私>ではなく、<私>以外の誰か、という読みもできなくはない。すなわち、「電車で、私の向かいに座っている人の、座り方が少しくずれて、隣の人のピンクのDSを見ているよ」といったような読みもできなくはないのだ。そうであれば、「くずれて」の用法は誤りとはいえなくなる。

 しかし、主語の省略は<私>として読む、というのが、短歌の読みのセオリーだから、筆者としては、後者の読みについては否定的だ。

 やはり、この作品は、「くずして」と使うべきところを、あえて他者的に「くずれて」と使い、<主体>と<語り手>の視点を分離させることで、状況を「異化」している作品である、と、繰り返しになるが主張しておきたい。