現代口語短歌の「異化」の手法④

 前回までは、「異化」作用の手法として、「語順の入れ替え」と「強引な接続」による手法をあげた。

 今回は、3つ目として、「流れる認識」による状況の「異化」とでも呼べるものをあげる。

 いつも永井祐ばかり掲出しているから、今回は、仲田有里『マヨネーズ』から掲出していこう。

 

 カーテンの隙間に見える雨が降る夜の手すりが水に濡れてる

                        仲田有里『マヨネーズ』

 昼過ぎにシャンプーをする浴槽が白く光って歯磨き粉がある

 てかてかと光った葉っぱがこの道の向こうに縦の信号の横

 構内に小さい庭がある駅を抜けてかわいい人と目が合う

 

 どの作品も、<主体>の認識がとりとめなく流れている。

 スマホで動画を撮っているような感じといえばしっくりくるだろうか。

 1首目。とある夜に<主体>は部屋のなかにいる。カーテンの隙間から雨が降っているのが見えていて、ああ、雨が降っているんだな、と認識する。別に、しっかりと見ているわけではなく、ぼんやりと、とりとめなく、見ている感じだ。そして、カーテン越しに見えているのは、手すりで、ああ、濡れているなあと認識している、というただそれだけの歌である。カーテンの隙間からの景色を見続けているので視点は止まったままだが、雨が降っているなあ、から、手すりが濡れているなあ、へと、認識の流れを叙述しているので、時間はある程度動いている。なので、動画のたとえでいえば、スマホの画面を動かさずに動画撮影をしている、といえばいいだろうか。叙述の感じからして、手すりに向かってズームアップはしていないと思う。

 2首目。こちらも、1首目と同じ構造である。短歌の韻律を優先して二句切れで読むのが妥当だろう。すなわち、散文で叙述するなら、「私は昼過ぎシャンプーをしていた。浴槽が白く光っていて、そばに歯みがき粉があった」といった感じだと思う。

 こちらも、シャンプーをしている<主体>の視点は、ズームではなく、そこそこ引きで撮りながら、白く光る浴槽を認識して、歯みがき粉を認識した、というわけである。こうした、日常のなにげないコトやモノを<主体>が認識したままに韻文にしたことで、日本語がねじれてしまって、結果、そうした日常が「異化」されている、というのが、本稿で繰り返ししている主張だ。

 3首目。こちらも、<主体>の認識をそのまま叙述しようとしている作品だ。視点は一定だが、動画は、てかてかの葉っぱのアップからはじまり、それが、引きになって、道があらわれて、縦型の信号が見えるところまでカメラが引いて、全体の風景がわかった、という、少し凝った構造をとっている、というわけだ。

 4首目。ついに視点が動いた。スマホで動画を撮りながら歩いているのだ。カメラは、構内に小さい庭のある駅を映している。構内には小さい庭の他にもたくさんいろんなコトやモノがあるはずだけど、<主体>は、小さい庭しか認識していないので、それしか叙述していない。そんな駅を抜けたら、可愛い人がいて、目があった、というわけだ。こちらも、日常のなにげないコトやモノを叙述しているので、実にまとまりのない作品になっている。そして、時間の経過による<主体>の認識とともに、歩いていることによる空間の移動によっても<主体>の認識の動きが叙述されている。といっても、短歌だから叙述に限りがある。認識したものすべてを正確に叙述することなど、到底できることではない。で、そんな限りのあるなかに、それでも認識したコトやモノをそのまんま詰め込んでいるので、まとまりのない作品となっている。そういうわけで、これらの作品は、そんなまとまりのなさによって、ありきたりの日常を「異化」しようとする試みなのである。

 

 さて、4首目のような時間の経過と空間の移動を、よりストイックにというか、より正確に叙述しようとすると、こうした作品になる。

 

 真夜中はゆっくり歩く人たちの後ろから行く広い道の上

                   永井祐『広い世界と2や8や7』

 

 こうなると、散文にあらわすのはもはや不可能だ。散文ならば、いくつかのセンテンスに分けて叙述しなくてはいけなくなるだろう。韻文なら、よく読むとおかしな日本語でも、作品として成立するのが、韻文による「異化」の産物といえよう。

 この作品も、これまでみた仲田の作品と同様に、一瞬を切り取るのではなく、ある一定の時間を叙述することで、その一定の時間の状況を「異化」しようとする試みといっていいだろう。それは、日常の何ということはない状況だ。そして、そんな何ということのない状況を、端正な日本語で流麗な調べで叙述するのではなく、おかしな日本語で叙述するから、読者は「おや」と「違和」を感じて、状況が「異化」されていく、という手法なのだ。

 

 と、ここまでは、スマホ動画にたとえてみたように、<主体>の認識を、視覚情報によって叙述している作品を挙げた。

 けど、認識の流れというのは、何も<主体>が見たコトやモノだけではない。頭の中で、あれこれとりとめもなく浮かんでは消えていくコトやモノも認識に違いないだろう。

 次は、そんな、<主体>が頭のなかで浮かんだ認識も混じっている作品。

 

 秋がきてそのまま秋は長引いて隣りの電車がきれいな夕べ

                   永井祐『広い世界と2や8や7』

 デニーロをかっこいいと思ったことは、本屋のすみでメールを書いた

 横浜はエレベーターでのぼっていくあいだも秋でたばこ吸いたい

 テナントだけがぐんぐん替わる駅ビルの長いエスカレーターを下りていく

 

 1首目。<主体>は秋の終わりのとある夕方に、今年の秋のことを電車のなかで、ぼんやりと想起している。ああ、今年は秋が長引いているなあ、と。そして、今度は、車窓に見える隣の電車を認識して、ああ、きれいだな、と思ったというわけだ。そんな、日常のなんでもない時間の経過を作品にしたのだ。

 2首目。こちらは、どこかの本屋で、デニーロのことを思い浮かべた。なぜ想起したのかというと、雑誌の表紙だったのかもしれないし、2時間前の会話を思い出したのかもしれない。分からないけど、とにかく、<主体>は頭のなかでデニーロを認識したのだ。その後で、メールを書いたというわけだ。書いたというよりは、打ったという方が正確のような気もするが、そういう2つの認識の流れが、2つの断片のまま1つのセンテンスとして叙述しているので、相当おかしな韻文というか散文というか、そういうものになっている。

 3首目。こちらは、エレベータに乗って秋だなあと認識したことと、タバコが吸いたいなあという認識の、とりとめのない2つの認識を叙述している作品。エレベータに乗っているというのが、この作品のうまいところで、確かに、一人でエレベータに乗っている状態というのは、何もすることがないので、ぼんやりするしかない、というか、何か深く考えるには短い時間なので、秋だなあと想起する程度の時間なわけだ。

 4首目。こちらはエスカレーター。こちらも、ぼんやりとエスカレーターに乗っていて、駅ビルはテナントだけが変わっていくなあ、なんて、どうでもいいことを認識した、という作品。長いエスカレーターのような冗長気味な韻律、それから、「ぐんぐん」がテナントだけではなく、長いエスカレーターの形容にも共鳴していて、なかなか愉しめる作品になっている。