口語短歌とは何か③

3 明治期の口語短歌

・明治期の口語短歌

 これから、明治期の口語短歌作品を取り上げていこうと思うけど、その前に、これまでの議論を振り返っておこう。

 これまでは、もっぱら「口語」とは何か、ということを議論した。

 そして、結論として「口語」というのは、明治期に生まれた新しい書き言葉、という意味でひとまず決着した。だから、「口語」というのは、あくまでも書き言葉であり、話し言葉の意味として用いてはいない、ということをかなりしつこく確認した。その一方で、日本語の話し言葉というのは、書き言葉では表すことはできない、ということも例示しながら説明した。

 そういうわけで、ここで議論している「口語」というのは、明治期になって、おもに散文の分野で発達した、それまでの書き言葉の文法形態とは異なる、新しい書き言葉のことを指す、ということになるのだ。

 そして、そんな「口語」を用いた短歌作品が、「口語短歌」ということになる、というところまでが、前回までに議論した内容だ。

 さて、話題を明治期の文学状況に戻そう。

当時のわが国の文学の世界に、新しい文学思想がやってきた。それは何かというと、「自然主義文学」と呼ばれている思想である。

 「自然主義」とは何か。というと、そのままナチュラリズムの直訳語で、字面だけみても、どのような主義主張かはわからない。別に、神羅万象の自然物を取り扱う文学というわけじゃない。「自然主義」について知りたいのなら、これはもう、「自然主義文学」と言われている小説なりを手にとって、これが「自然主義」か、と各々が実感してもらうしかないのだけど、とりあえず、ここで乱暴にいうならば、世の中を客観的にありのままにとらえるようとする主義、が「自然主義」であり、それを描写した文学が「自然主義文学」いうことになる。

 わが国では、少し屈折してしまって、私の身の回りを客観的にありのままに描くという「私小説」が「自然主義文学」の代表格みたくなった。なんでそうなったかというと、恐らく、人間の心に宿している光も影も、すべて隠さずにさらけ出すようなのが「自然主義」だ、みたいな議論になったのだろう。

 さて、そうした「自然主義」が当時の新潮流みたいなものだったから、明治期の短歌の世界もまた、「自然主義」の影響を受けるというのも、まったくもって自然の流れだった。

 そして、結果的に、近代短歌というのは、この「自然主義」の影響下で進展をしていくことになる。どうやら、近代短歌と「自然主義」は、相性が良かったのだ。なぜそう言えるのか、というと、いわゆる写実や写生といった、事象を見たままに描写することで美質を見出そうする短歌技法、これが「自然主義」の思想とうまく合致したからだろう。だから、近代短歌は、「自然主義」の主義主張といったものを受け入れながら、写生や写実といった短歌特有の表現方法が大きく進展していったのだ。この写実や写生といった表現技法は、「自然主義」と関係があったなんていう時代背景を知らずとも、現在では、すっかり様式化されて、短歌表現のひとつの技法として定着していよう。

 「自然主義文学」は、現在では、かえりみられることも少ないのだろうけど、こと短歌の世界では、まだまだ主流といえるだろう。わが国の文芸のなかで、もっとも「自然主義」文学が発展したのは短歌文芸であった、ともいえるのではないだろうか。

 さて、話を明治期の短歌の世界に戻そう。明治期の短歌は、そんな「自然主義」文学の影響を受けたわけだけど、じゃあ「口語」の短歌は、一体どのようなものだったか。

 というと、最初の口語短歌の歌集は、青山霞村(あおやまかそん)の『池塘集』(ちとうしゅう)ということになっている。時代は、明治39年、日露戦争の頃だ。

 君が恋は地層に深い水脈(みづすぢ)や吾手にほられて泉と湧いた

 この恋もなにかが遂に消すまいが二人のあとを浪がけすやう

 秋が来た葡萄はうまい酒に熟め遊子の学びは知慧と情けに

 淫れ驕り国の大臣といふものに一匹二匹と呼れるがある

 頸円い希蠟姿と恋をして机の美術史みな活きてきた

 こうした作品が発表された時代というのは、さっきから述べているように、「自然主義」の文学の影響下にあって、特に小説の世界では、島崎藤村やら田山花袋やらといった、文学史に残る「自然主義」の作家の作品が発表されたころと同じ時代だ。

 けれど、そんな時代なのだけど、青山霞村の作品からは「自然主義」の影響なんてこれっぽっちも感じない。まったく新しくない。やはり、当時としても、こうした作品は、ずいぶんと古めかしい感じがしたことだろう。

 これはどうしたことか。というと、口語短歌がそういう古めかしいものを歌うために創出された、というのではなく、単に作者の青山霞村が近代短歌の歌人なのではなく、江戸後期の和歌の流派の流れをくんだいわゆる旧派和歌の歌人だった、ということだ。

 そういわれると、なんとなく旧和歌の調べを彷彿とさせるし、今日からすると狂歌を読んでいる感じもしよう。

 だから、これが口語短歌の始まりといっても、当時の文学思想の影響を受けたとか、あるいは文学的な主義思想を土壌とした本邦初の口語短歌、というわけでは全然なく、霞村がこれまで詠ってきていた旧和歌派の作風で、試しに新しい書き言葉で詠ってみた、という趣のもの、といっていいだろうと思う。現に、この歌集には、こうした口語短歌は三割くらいで、残りは文語で詠われていた、ということだ。

 

・短歌滅亡論

 そういうわけで、短歌史として「口語短歌」を議論するのであれば、やはり「自然主義」文学とのかかわりを議論したほうがいいだろう。

 じゃあ、何を論点にするか。というと、尾上柴舟の「短歌滅亡論」をあげることにしたい。

「短歌滅亡論」、これ、ごく簡単にいえば、「自然主義」文学が我が国に浸透していくなかで、では短歌はいったいどうすべきか、という問題を提起したもの。

 で、いっていることは何かというと、ここでも乱暴にいえば、短歌は、「自然主義」が主張するような、ありのままの自己表現をすることはできない、ということ。

 柴舟の文章自体は、そんなに長いものではないけど、とりあえず、「口語短歌」に関連するところを引くならば、こんな感じだ。

 

 (前略)私の議論は、また短歌の形式が、今日の吾人を十分に写し出だす力があるものであるかを疑ふのに続く。(中略)ことに、五音の句と、七音の句と重畳せしめてゆくのは、日本語が、おのづから五音七音といふ傾を有つた当時ならば、自然に出来る方式であつたであらうが、これを脱した、自由な語を用ゐる吾々には、これに従ふべくあまりに苦痛である。(中略)世はいよいよ散文的に走つて行く。韻文時代は、すでに過去の一夢と過ぎ去つた。(中略)

 私の議論は、また短歌の、主として言語を駆使することがまた、自分らを十分に写しえないと思ふのにも連なる。(中略)吾々は「である」また「だ」と感ずる。決して「なり」また「なりけり」とは感じない。(中略)吾々は、十分正直に、吾々を現はすべき語を用ゐねばならぬ。(後略)

 

 かなりはしょって引用したけれど、そんなに読みにくくはないかと思う。

ここでの論点は次の二点だ。

 一つは、五音七音の定型に現代の日本語をあてはめるのは苦痛である、ということ。

もう一つは、私たちは「なり」や「なりけり」ではなく、「である」や「だ」と感じるということ。

 この二点である。これが「短歌滅亡論」の「口語」にかかわる論点だ。

 この二つの論点、これ、現代でも短歌を論じる際の論点となっていよう。そして、「自然主義」文学を短歌の世界で論ずるときの問題点を見事にとりあげたものだともいえよう。

 すなわち、自分のありのままの感情なり、ありのままの自然を描写するのに、なんでまたわざわざ定型に嵌め込まなくてはならないのか、まったく自然じゃないじゃないか、ということ。これが一つ目。

 それに、自分のありのままの感情は決して「なり」とか「なりけり」なんて感じるわけがないじゃないか、ということ。これが二つ目。

 で、そんなことをやっている短歌は滅亡してしまえ、というわけだ。

 いうなれば「自然主義」文学からの近代短歌へケンカを売ったという感じの文章なのだ。

 

・口語短歌の立ち位置

 この問題提起に直接的に呼応したわけではないが、「口語短歌」は、そんな時代の潮流として、口語的な発想、つまりは、率直な自己表現を求める立場として、そして、「たり」、「なり」ではない発想の作品として、試行されるようになったのである。

 そう考えると、「自然主義」にふさわしい形態として、「口語」が試行された、ということもいえるだろう。違う言い方をするなら、「口語」で歌を作るのに、「自然主義」の思想はまことに都合がよかった、ということだ。

 

さらさらと雨戸にあたる雪の音はある日の二人を思ひ出させた 徳山暁風

酔覚めにさうだとうんと手を伸して大気を吸つてみろ宇宙は広い 池田茂馬

門をくぐるとポッカリ馬糞の暖かい三月花壇のオランダイチゴ 後藤史郎

何とはなしに不平が徐々につのつてくる日理科実験のフラスコが冷たい 秋田としみつ

 こちらは、『現代口語歌選』というアンソロジーからの掲出。これは、大正期の207人による1305首が載っている。207人とは実に多い数ではないか。

つまり、「口語」で短歌を作る、というのが、大正期に入ってひとつの潮流となってきているといっていいだろう。

 一首目。これは、まだ定型に嵌め込んでいるが、短歌といわなければ、散文ともいえる。言葉の使い方も、現代と変わらない。定型への嵌め込み方もこなれてきていよう。

 二首目。こちらは四句目の破調が大胆で、この先の口語短歌のひとつの特徴を示していよう。定型に嵌められている感じはさほど感じられず、かなり自由になっている。

 三首目。馬糞を歌の題材にするなど、実生活に根ざしているし、写実性もみられている。

 四首目。作者は学校の教員だ。令和の時代のブラック教員の哀歌といっても通用するくらいの「口語」のこなれ方ではないか。

 続いて、大正末期から昭和に入ると次のような作品も生まれてくる。

 よせられたカーテンは皺にひつそりと光と影をためて息づく 清水信

 疲れたと言ふ事も/出来ぬ馬なれば/その長い顔を/抱き撫でてやる 中村孝介

 何といふ深い空だろ、/指頭に/空の重みを感じる、今日も。 花岡謙二

 

 一首目。カーテンが息づいているのだ。なかなか新鮮な比喩ではないか。韻律も現代からみて洗練されていよう。

 二首目。四行歌の体裁。句跨りによる韻律の屈折が巧みだ。また、結句の叙述など、口語ならではの歌いぶりが印象的だ。

 三首目。分かち書き、句読点の使用に、定型を忌避しながら短歌文芸の新しい技法を模索していよう。しかしながら、指さきに空の重みを感じる、なんていうのも、なかなか詩的ではないか。

 さて、このような作品が昭和初期に頃には提出されたわけだが、これらの「口語」短歌、作品の質も高く、もしこのまま「口語」短歌が洗練していけば、近代短歌史もまた違ったものとなっていたと思う。けれど、残念ながら、そうはならなかった。

 ここから先、「口語短歌」は、定型を脱して、自由律のほうへ向かっていってしまう。

 なぜか。

 先ほどの、短歌滅亡論の論点を想い出して欲しい。

 一つは、五音七音の定型に現代の日本語をあてはめるのは苦痛である、ということがあった。

 つまり、自分の感情をありのままに詠うには、定型は邪魔なのだ。嵌まるわけがないのだ。そうなると、定型からはみ出すことになる。

 そうして、「口語短歌」は定型から自由律へと大きく舵をきっていくのだった。

 もし、さっきの大正期の207人ではないけれど、この時期に一定数、定型のなかで調べを整えながら短歌作品をつくる「口語」歌人が存在したならば、近代短歌史も違った道筋になっていったろうと思わずにいられない。

 そういうわけで「口語」短歌の進展は、これから先、戦後になるまで待たなくてはいけないのである。

 

・文言一致のもうひとつの問題

 

 さて、もう少し、「口語短歌」が生まれた頃の明治期の文学状況について議論しよう。

 明治期の言文一致運動によって、小説の世界では、「新しい書き言葉」というか「話しているような書き言葉」というか、そんな「口語文」が生まれた、という話はすでにしたわけだが、その「口語文」に、新たな問題が生まれていた。

 それは〈私〉の問題だ。

 と、いきなり言われても全くピンとこないと思う。何を言いたいのかというと、話しているように書くのはいいけれど、じゃあ、その「話しているのは誰なのか」という問題が生まれたのだ。

 と、述べてみたけど、まだピンとこないかもしれない。

 実際の小説の叙述を例にして考えてみよう。

 例えば、「吾輩は猫である。名前はまだない」と書かれてある小説ならば、話しているのは「猫」になる。では、「メロスは激怒した」と書かれてある小説の話し手は誰なのか。という問題である。一体、誰なんだろう。

 あるいは、「人称」という概念を持ち出してもいいだろう。『吾輩は猫である』は、一人称小説といえるし、『走れメロス』なら三人称小説ということだ。こうした「人称」という概念も、この、文言一致とともに生まれたのだった。つまり、それまでの日本には、「人称」なんて概念は存在しなかった。ようは、そんなこと考えたこともなかったのだ。

 しかし、「話しているような書き言葉」の誕生によって、必然的に、その「話しているのは誰?」という問題が生まれたのだ。

 この問題、短歌の世界ではどうなるだろう。こちらも、実際に短歌作品から考えてみよう。

 瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり

                       正岡子規『竹乃里歌』

 この作品、これは、一人称か、三人称か。

 たとえば、藤の花を見ているのは誰かという問いなら、短歌の世界では、そんなに難しくはない。と、いうと、これは〈作者〉である子規だ。病床で見ているからこその描写だ。しかし、この文語短歌が、一人称か三人称か、と問われると、かなりの難問になる。というか、やはり、この場合の人称は答えようがないのだ。

 それは、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という叙述が、一人称なのか、三人称なのか、分からないのと同じだ。この川端康成の『雪国』、冒頭の一文では、人称は分からない。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。」と、やっと、ここまで読んで、島村という主人公が叙述されて、はじめて、三人称で書かれた小説、ということがわかるのである。

 しかし、短歌はそうはならない。短歌は文字通り短いから、一人称か三人称かはっきりしないのだ。と、いうか、近代短歌はそもそも人称は議論の対象にはならないのだ。だって、議論したところで、分からないのだから。

 だから、これまで、短歌の世界では、一人称とか三人称とかは、議論の対象にはならなかった。そもそも、そんな概念がなかったのだから、議論しようがないのは、当然のことだった。

 しかし、言文一致運動とともに、〈私〉の問題が生まれてくる。

〈私〉とはなんなのだろう。

 「たゝみの上にとゞかざりけり」と語っている〈私〉は、一体、誰なのか。

 そもそも、その〈私〉の問題と、「口語」短歌とは一体、どうかかわるのか。

 というあたりについて、次回以降、議論していきたいと思う。