短歌時評2023.3

 角川「短歌」の令和5年版「短歌年鑑」と短歌研究社の「短歌研究」12月号「短歌研究年鑑2022」を読む。

 2022年の回顧的記事では、「短歌ブーム」の話題が多かった。

 なんでも、今は「短歌ブーム」なのだという。テレビでも取り上げられ、書店では歌集が売れていて、SNSでは、短歌作品が話題になっているのだという。そう言われると、世の中で、短歌は「ブーム」になっているんだろうけど、だからといって、私たちがそれを実感しているかといえばそんなことはないと思う。だって、身の回りで短歌を始める人が増えたなんて話は聞いたことがないし、職場や友人との会話で、短歌が話題になることなんてあるわけがなかろう。

 じゃあ、回顧記事にある「ブーム」というのは何か。

 というと、阿木津英が言うように、

「〈ブーム〉は起きるものではなくて起こすもの。「商品としての」短歌雑誌なり、歌集なり、歌人なりを売り出すための戦略であろう」(角川「短歌年鑑」)に尽きよう。

 しかしながら、そうやってブームを起こして、歌集や歌人を売り出しているのだが、だからといって、私やあなたがよく知っている短歌作品が商業ベースにのるようなコンテンツになるかというと、そんなわけがなかろう。つまり、ブームといっても、私やあなたの知っている作品が、それが歌集となって世に出されたとして、どうまかり間違っても売れるわけがないのだ。

 では、今回の短歌が商業ベースでブームになっているというのは、一体、何なのか。というと、これは、作品というよりは、単純に短歌というパッケージとしての役割なのだ。

 黒瀬珂瀾はいう。

「メディアの人々や世間が発見したのは短歌文化の体系ではない。…短歌ブームにおける短歌とはユーザーにとってとびきり新しい、珍しい、新発見された便利アプリである。…短歌というコンテンツは他コンテンツの代替物として発見されてゆく」(「短歌研究」12月号)

 つまり、短歌という「言葉をフレーズ化してエモいコンテンツとして流通させる目新しいツール」(前掲)であり、それは、私たちが認識している短歌というよりは、「現代定型句」(前掲)というにふさわしいものなのだ。

 そういうわけで、昨今の「短歌ブーム」というのは、実のところは、「現代定型句ブーム」というべきもので、エモいコンテンツを創作する作家にとっては、それが売れるかどうかは重要になるだろうが、私やあなた、つまり歌人とっては、実のところは、どうでもいいことなのだ。

(「かぎろひ」2023年3月号所収)