前回「短歌的喩」で読むと、いい鑑賞ができるのではないか、というところで話が終わった。
「短歌的喩」とは何か。というと、これは吉本隆明が提唱した概念で、短歌だけにあらわれる独特の比喩の働きをいう。概略をかいつまんでいえば、短歌を上句と下句にわけて、それぞれが喩として円環的、相互的に働いている、とする(『現代短歌大事典』三省堂)。
灰黄の枝をひろぐる林みゆ 亡びんとする愛恋ひとつ
岡井隆『斉唱』
吉本は、この岡井の作品で、上句は下句の「像的な喩」、下句は上句の「意味的な喩」とした。(前掲書)
「像的な喩」「意味的な喩」というのは、少し難しいけど、要は、上句は下句の喩であり、下句は上句の喩だ、お互い喩え合っているのだ、と簡単にとらえるとスンナリわかるかと思う。
岡井の作品でいうと、〈灰黄の枝をひろぐる林〉というのは、まるで〈亡びんとする愛恋ひとつ〉のようなものだとして、心象を実景の意味として喩えているといえるし、一方で、〈亡びんとする愛恋ひとつ〉というのは、まるで〈灰黄の枝をひろぐる林〉のようだと、実景を心象の像として喩えている、ということがいえよう。
本当は、もう少し難しい概念なのだけど、ごく乱暴にいうとそういうことである。
では、前回、取り上げた永井祐『広い世界と2や8や7』の作品を再掲してみよう。
君は君の僕には僕の考えのようなもの チェックの服で寝る
春のなかで君が泣いてる 階段はとてもみじかくすぐに終わった
七月の夜は暑くてほっとする むかしの携帯を抱いて寝る
これらの作品は、上のかたまりが「意味的な喩」で、下のかたまりが「像的な喩」であるといえるだろう。そして、どの作品も、上のかたまりと下のかたまりが互いに比喩の関係にある、ということがいえるだろう。
もちろん、短歌的喩ではなく、二物衝突的な読みの方がよりよい鑑賞ができるという意見もあるだろう。こうした作品解釈は、「読み」の範疇の話題であるから、読者はどう解釈してもいいとは思う。
二物衝突といえば、次にあげるのは、二物ならぬ、二文が衝突している感じのする作品。同じく永井祐の前掲歌集から。
君の好きな堺雅人が 電子レンジ開けてはしめる今日と毎日
デニーロをかっこいいと思ったことは、本屋のすみでメールを書いた
宇宙でもこわれないもの 枕もとにグレープジュースを置いて昼寝を
一首目。誤植ではない。ちゃんとした作品だ。一字空けのところで、突然違う文章になっている。これを上下で二つの文章が衝突している、ととらえると、面白い「読み」ができるのではないか。
二首目、三首目も同様である。上下で関係のない文章が並んでいる、ととらえればよい。
こうした作品を日本語以前と切り捨てるのはたやすいが、せっかくだから、二つの文章の衝突具合を味わってみてはどうだろうか。つまり、俳句の二物衝突のような鑑賞するということだ。そうすることで、上下の断片が違った輝きをもってイメージできるのではないかと思うのだが、どうだろうか。
(「かぎろひ」2021年9月号所収)