口語短歌とは何か①

1 口語とは何か

 

 口語短歌とは、何か。例えば、次の作品は、何なのか。

 

 この曲と決めて海岸沿いの道とばす君なり「ホテルカリフォルニア」

                        俵万智『サラダ記念日』

 空の青海のあおさのその間(あわい)サーフボードの君を見つめる

 砂浜のランチついに手つかずの卵サンドが気になっている

 捨てるかもしれぬ写真を何枚も撮っている九十九里

 「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

 ハンバーガーショップの席を立ち上がるように男を捨ててしまおう

 

 一首目。若いカップルのドライブの一コマ。初デートなのかもしれない。助手席の女性の〈われ〉は、相手の男性がカーステレオで流しているイーグルスの「ホテルカリフォルニア」の選曲を冷静に分析している、という場面だ。いかにも短歌らしい切り取りが愉しい作品であるが、そういう鑑賞はともかく、いまは、叙述されている言葉に注目して議論しよう。

 この作品、これは口語短歌か。

 現代的なことを現代的な言葉で叙述しているから、これは口語短歌かな、と判断しがちになるけど、よく見てみよう。4句目がどうにも引っ掛からないだろうか。「とばす君なり」の「君なり」だ。「君なり」なんていう言葉づかい、これは口語とはいえないだろう。すくなくとも、現代語では使わない言葉づかいだ。

 じゃあ、口語ではないとするなら、何だろうか。文語でいいのだろうか。けれど、そもそも文語とはなんだろう。「なり」は、文語ではなく、普通一般には、古語というべきものなのではないか。

 それとも、文語というのは、書き言葉のことなのだろうか。そうだとするなら、この作品、そもそも、すべて書き言葉で叙述されているということになる。つまり、この作品は、文語短歌であると。

 いやいや、書き言葉だったらなんでもかんでも文語、ということにはならないだろう。やはり、現代の言葉で叙述されているのは口語というのではないか。つまり、口語とは現代語というのと同じ意味合いで、この作品は、現代語で叙述されているから口語なんだ、と。

 けれど、そう考えるなら、口語という言葉も、よくわからなくなってくる。現代語で叙述されているのを口語というのなら、口語といわずにはじめから現代語といえばいいことなのだ。わざわざ、現代語と言わずに口語といっているのはなぜか。

 文語の書き言葉での叙述に対応して、口語は、話し言葉の叙述ということなのだろうか。けれど、話し言葉というならば、「この曲と決めて海岸沿いの道とばす」なんていう叙述は、話し言葉とは言い難い。やはり、現代語と言ったほうがいいのではないか…。

 と、いうように、短歌の叙述について、短歌の世界で使われている用語でキチンと議論をしようとすると、途端に、よく分からなくなるのである。

 

 ・短歌用語のいい加減

 ここまで、次の用語がでてきた。すなわち、口語、文語、現代語、古語、話し言葉、書き言葉、の6つだ。どうやら、まずは、この6つの用語についてキチンと議論しない  ことには、口語短歌についての議論も進まないようである。

 だけど、短歌の世界では、口語短歌と文語短歌という用語については、一応、次のような理解が一般的となっていよう。すなわち、現代語の文法で叙述されているのが口語短歌で、古典文法で叙述されているのが文語短歌である、と。

 けど、こうした理解もまた、口語短歌とは何か、文語短歌とは何か、という議論の混乱に大いに拍車をかけていることになるのだけど、ともかく、この程度のいい加減な理解で議論されているというのが、短歌の世界の現状なのである。

 そもそも、現代語の文法で叙述されていれば口語短歌である、という理解がおかしい。それは、口語短歌ではなく現代語短歌、あるいは現代短歌とでもいうべきだろう。そして、現代語短歌の中に、話し言葉のようなものが挿入されている、あるいは、一首まるまる話し言葉のようなもので叙述されている短歌作品についてだけ、はじめて口語短歌というべきだろうと思う。

 文語短歌についても同様だ。古典文法で叙述されているのは、古語短歌とか、あるいは近代短歌とかで呼ぶのが妥当だろう。文語短歌という用法がおかしいのだ。そして、古典文法で叙述されている古語短歌の中にも、話し言葉で叙述されている短歌というものもあろう。それらは、やはり口語短歌と呼ばないと用語の使用が整合的ではないだろう。

 と、いうように、こうした用語のいい加減さが、口語短歌の議論に混乱をもたらしているといえるし、さらに言えば、この程度のいい加減な理解で、これまで口語短歌の議論が普通に成り立っていたということが、口語短歌の議論のいい加減さの何よりの証左といえよう。

 しかしながら、いくらいい加減な用語の使用だとしても、とりあえず、短歌の世界で理解されている使い方で議論をしないと話が先に進まない。とにかく、短歌の世界で理解されている口語短歌とは普通一般に何をいうのか、というところまで、話を進めていくことにしよう。

 

・文法形態の3種類

 俵万智の作品に戻ろう。

 一首目の作品は、はたして口語短歌なのか、という話題であった。

 4句目の「君なり」。これは、現代語の文法でなく、古典の文法での叙述である、というところまではいいだろう。では、4句「なり」をもって、この作品は、文語による短歌、といえるだろうか。

 そこだけ切り取れば、文語による短歌とはいえそうである。しかし、その他については、文語文法で叙述がなされているわけではない。「君なり」のすぐ上にある、「とばす」。これは、文語か口語か。というと、ここでは、道を車で「とばす」といっているから、こうした用法は、古典文法には存在しない。なので、これは現代文法による叙述といえるだろう。

 そうなると、この作品は、古典文法の「なり」と現代語の文法の「とばす」の両方が存在している、ということになる。つまり、口語短歌と文語短歌の両方が混じっている、という解釈になる。

 さて、こうした作品は、何なのだろう。

 こうした、現代語の文法と古典文法の両方が用いられている作品については、とりあえず、「口語文語ミックス短歌」とでも呼んでおこう。犬の種類にミックス犬なんていうのがあるように、短歌にも現代語の文法と古典文法がミックスされた短歌があるということだ。

 いくら現代的なことを題材にしていても、ここでは、とにかく叙述されている文法の扱いで判断する。「なり」なんていう、古典文法による叙述がある以上、それは口語短歌とはいえない、という理解である。 

 とりあえず、これで文法形態による短歌の区別はついた。短歌の叙述には3種類あるのだ。

 すなわち、文語、口語、口語文語ミックスの3種類だ。

 ちなみに、この俵の作品のような、口語文語ミックスによる叙述。これ、短歌以外の文章なら、完全に誤用である。現代語で叙述しているなかに、いきなり古典文法が入ってきたら、どう考えても、その文章はおかしい。文法形態としては整合していないんだから、これは誤用となろう。けれど、短歌の世界では許容されている。古典文法と現代語の文法が入り混じっていても、平気な顔して日本語の文芸として定着している。短歌になじんでいる人なら、別に変とも思わないかもしれないが、こうした叙述は、日本語の叙述としてどうしたって変だ。こうした変な叙述でも、別にひっかかることなく普通に読んで鑑賞して、いい歌だなあなんて思っちゃうのが短歌の世界のユニークなところである。

 それはともかく、冒頭にあげた、俵万智の『サラダ記念日』のほかの掲出作品を見て行こう。かなり、話が横に広がったから、もう一度、掲出しよう。

 

 この曲と決めて海岸沿いの道とばす君なり「ホテルカリフォルニア」

                         俵万智『サラダ記念日』

 空の青海のあおさのその間(あわい)サーフボードの君を見つめる

 砂浜のランチついに手つかずの卵サンドが気になっている

 捨てるかもしれぬ写真を何枚も撮っている九十九里

 「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

 ハンバーガーショップの席を立ち上がるように男を捨ててしまおう

 

 2首目。この作品は、文語か口語か口語文語ミックスか。

 というと、すべて現代文法で叙述されているから、口語短歌といえそうだ。

 3首目もまた、古典文法が使われていないから、これも口語短歌。

 4首目は、2句目の「しれぬ」は古典文法による叙述で、4句目の「撮っている」は現代語の文法による叙述だから、口語文語ミックス短歌となろう。

 5首目、6首目は、古典文法に叙述が見当たらないので、口語短歌である。

 と、わりとさっくり分類ができた。

 これで、とりあえず、文法だけを見れば、口語短歌と文語短歌とミックス短歌に分類をして、議論を終えることができそうだ。

 と、いえるのだけど、どうにも釈然としない感じが残る。たとえば、2首目。よくみて欲しい。三句目の「その間(あわい)」。これは、果たして、現代語か。「あわい」なんていう言葉、もう現代では使われていないだろう。ルビがなければ、「あいだ」と読むのが一般的で、せいぜい「はざま」だろう。果たして「あわい」は現代語か古語か。

 しかし、こうした議論は、先ほどの口語短歌や文語短歌の分類には必要がない。なぜなら、古典文法か現代語の文法かで、文語短歌と口語短歌を分類するのだったから、ここは、古典文法で叙述されていない以上、口語短歌ということになる。

 けど、なかなかわり切れないのも確かである。「あわい」なんて言葉を使っているのに、口語短歌と分類するのは、やっぱり、どうもしっくりこないのではないか。

 文法形態による分類は先ほどの3種類でいいとして、次に、言葉そのものの分類を議論しておこう。つまり、古語とは何か、という議論である。

 

 ・短歌は全部現代語

 時代を大きくさかのぼろう。

 そもそも短歌の先祖である古典和歌は、現代でいうところの古語で叙述されていた。もちろん、奈良時代にしろ平安時代にしろ、その時代には、古語なんて用語は存在しなかったから、これは、現代の私たちから見ての話。奈良時代にせよ平安時代にせよ、当時の人々にとってみれば、現代語で叙述した現代和歌(そんな用語はもちろん存在しない)だったわけで、時代が下っていくにつれて、現代語で叙述していたはずの和歌も、いつしか古語の叙述としてみなされるようになったのだ。

 では、そんな奈良時代平安時代に叙述された和歌の言葉を古語としてみなす、とキチンと規定したのはいつか。というと、そんなはっきりしたことはいえないけど、正岡子規の次のような宣言が、ひとつの指標にはなるだろう。

「用語は雅語、俗語、漢語、洋語必要次第用いるつもりに候」(正岡子規「六たび歌読みに与ふる書」)。

 これは、子規が短歌とはこういうものだ、と勝手に宣言したものである。

 勝手に宣言したのだけど、当時から、子規の言ったことはそれなりに説得性があって、まわりが賛同した、ということはいえるだろう。

 ここで言っている、雅語というのが、いま議論している古語に近いだろう。明治時代の頃になると、和歌というのは、非常に形式的になってしまって、使用する言葉も、雅語といわれる用語に限られてしまって、なんでもかんでも詠うことができる、というわけではなかった。

 そんな堅苦しい和歌の形式をやめて、短歌というのは、雅語だけではなく世の中で使われている言葉なら何を使ってもいい、ということにしたのが、この子規の宣言なのだ。

 こうしたこともあって、短歌の世界では、それまでの雅語だけの作品を和歌と呼び、雅語を含めて何でも使っている作品を短歌と呼ぶというのが、慣例の用語の使用、となった。そして、この宣言は今でも通用している。だから、言葉の使用という点でみれば、子規のいた明治時代と現代は地続きなのだ。

 なお、明治時代は、雅語も和歌に限らずごく普通に文章などに使っていたのだから、これは当時として、古語という扱いだったわけではあるまい。つまり、子規のこの宣言というのは、この時代、普通に使われていた言葉をとにかく短歌に持ち込んでもいいじゃないか、ということなのだ。ようするに、この時代の短歌で使用された言葉は、すべて当時の現代語だった、ということだ。

 普通に使われている言葉を短歌でも普通に使う。これは画期的なことだ。

使う言葉に制約はないとするなら、短歌の世界では、古語と現代語の区別もあまり意味をなさなくなってくる。先ほどの「あわい」なんて言葉は、今となっては普通に使われなくなって、もはや現代語とはいえないから、やはり古語と呼ぶにふさわしいだろうけど、だからといって、現代の短歌で使ったらオカシイというわけじゃあない。そして、そんな言葉の扱いをもって、この短歌は口語だとか、文語だとか、ミックスだとか、分類するのもおかしいことになる。なぜなら、使う言葉が雅語だの俗語だの漢語だのに制約せず自由に使用できる以上、それらの言葉の使用をもって短歌をわざわざ分類する必要性がないからだ。

 つまり、現代語だろうが古語だろうがどの言葉を使ったところで、それは現代語短歌だとか古語短歌だとか分類できるものではなく、短歌としかいえないのだ。やはり短歌の言葉の使用は、子規の時代から、今まで地続きなのだ。

 

・文法は2種類ある

 そこで、問題になるのは、文法だ。

 現代語の文法と古典文法は明らかに違う。これは地続きではない。そして、この違いは、短歌にとっては大きい。だからこそ、口語短歌とは何なのかという議論をしているのである。

 現代語の文法は、明治期の終わりくらいから整備されはじめて、戦中戦後にかけて確立した。そして、戦後の学校教育によって体系づけられて、現代にいたる。文法が文法として体系づけられた直接の要因は、やはり教育によるものだったろう。すなわち、日本国民に日本語とはどういうものかとキチンと教えようとしたから、日本語の文法を整備して体系づけたという理解でいいだろう。つまり、先に文法があるのではない。文法というものを教えるために、日本語を分解して、規定して、分類して、体系づけたということだ。

 だから、文法ときいて難しいと思うかもしれないが、そんなことはない。私たちは現代に生きている日本人なんだから、体系づけられた文法形態をいちいち説明はできなくとも、少なくとも文法の間違いは瞬時に指摘できよう。「捨てる」という動詞の否定が「捨たない」となってたら誤り、ということは瞬時にわかるだろう。すなわち、「捨たない」ではなく「捨てない」の誤りだと。同じく「拾う」が「拾いない」となっててもすぐわかる。「拾わない」の誤りだと。じゃあなんで、日本語で「捨てる」の否定形が「捨たない」ではなく「捨てない」と言うのか。というと、それにはちゃんと理由があるわけで、その理由を説明するために、文法についての理解が必要となってくるのだ。文法というのは、そういうものなのだ。

 さらに、ここで重要なのは、ここで言っている日本語の文法というのは、書き言葉の文法である。話し言葉の文法ではない。

 文法に書き言葉と話し言葉があるというのは、初めて聞いたという人もいるかもしれないが、書き言葉と話し言葉と、言葉の使い方が違っている以上、それを体系づける文法体系も違っているのだ。

 ついさっき言ったように、文法は、日本語よりも先にあるのではない。日本語があって、それを分解して文法が体系づけられるのだ。そして、日本語には、書き言葉と話し言葉の2種類がある。であれば、文法も2種類ある、ということなのだ。

 簡単な例をあげると、書き言葉では、文末が「です」「ます」体だったり、「だ」「である」体だったりする。けれど、話し言葉では、そんなものを使って話してはいない。大体は、「ね」「よ」「な」「の」といった終助詞が述語の終わりにつく。そうなれば、おのずと文法体系も違ってくることが何となく予想できるだろう。

 そして、ここで、議論しているのは、書き言葉のほうである。

 書き言葉は、現代語の文法と古典文法では明らかに違っている。

 と、ここまで話を進めて、やっと口語と文語の違いについて整理ができるのだ。