短歌時評2023.1

キマイラと口語は別ものである

 

 口語短歌とは何か。文語短歌とは何か。

 そんな短歌の世界の根本的な問題について、一つの回答を示した論考が出版された。川本千栄『キマイラ文語』(現代短歌社)である。

 本書では、「口語」と「文語」の違いについて、明快に論じる。すなわち、「現代短歌で用いられている文語は、古語と現代語のミックス語であり、キマイラ的な言語だ。文語も口語も基本は現代語で、対立概念ではない」(前掲書)というのだ。

 川本に拠れば、短歌の世界で用いられているいわゆる文語というのは、助詞や助動詞などは古語で、そのほかは現代語と古語のミックスである。だから、文語短歌というのは、言語でみれば、古語と現代語のミックスで、いうなればギリシャ神話にある合体獣のキマイラみたいなものだ、というのである。

 この川本の主張に拠るなら、近代以降の短歌というのは、厳密な意味での文語短歌は存在しない、ということになる。で、そうなると、口語短歌とは何か、文語短歌とは何か、という問題自体が成り立たない無効なものとなる。だって、文語短歌というカテゴリーが消滅するのだから、そうなる。

 というわけで、いわゆる文語短歌、口語短歌というのは区別して議論することは意味がない、と明快に主張する。

 ここまでは、筆者も首肯する。しかし、そう主張するならば、次のような問題が自動的に生まれる。すなわち、完全口語短歌と、キマイラ短歌の区別だ。では、その違いは何か。というと、そこについては、明快ではない。

 川本は「文語口語の線引きをすることはあまり意味を持たないし、元々キマイラなのだから、好きに混ぜて使えばいいことだと私は考える」という。

 この主張については、筆者は、大いに疑問だ。いわゆる文語短歌はキマイラだとしても、完全口語はキマイラではない。いうまでもなく、完全口語は合体獣ではなく、完全に口語一択だ。ならば、完全口語とキマイラの相違は大いに論じるべきものなのだ。だから、今後は、そうした議論が必要になろう。

 いずれにせよ、今後、口語短歌について何らかの主張をする場合には、この川本の論考が議論の前提になるとは言っておきたい。

 続いて、「短歌研究」十一月号、第十回「中城ふみ子賞」発表。

 この賞は、隔年で開催されており、今回で十回を数える。しかも、今年は中城ふみ子の生誕百年だという。そんな節目の受賞者は、大黒千加「境界線」五十首。

  とことこと各停電車で逢ひにゆく何度この川渡つただらう

  君と子の電話の会話聞いてゐる子の傍に元妻の居るらむ

  路地裏を黒猫のあと追ひゆけば小径はスカイツリーを指して

 ストーリーを追うならば、イマドキの中間小説にありがちな中年女性の辛気くさい恋愛の断片にすぎないのであるが、短歌作品でストーリーを追って読んではいけない。詩歌として鑑賞するなら、たいへん完成度の高い作品が並んでいる。

 ところで、これらの作品群、完全口語のなかに、時折、キマイラ作品が加わる。こうした叙述は、どうにも文体不一致のように筆者には思える。口語脈のなかに、語調を整えるためだけに、古語を使った作品がときおり混じる連作というのは、短歌連作そのものが合体獣のようにみえるのだが、どうだろう。

(「かぎろひ」2023年1月号所収)