2021-01-01から1年間の記事一覧

短歌の「異化」作用とは⑦

現代口語短歌の「異化」作用について議論している。 日常のありふれた光景が、日本語のちょっとした違和によって「異化」されていく、短詩型ならではの状況の「異化」作用について述べてきた。 今回は、今年、出版された平岡直子の第一歌集『みじかい髪も長…

短歌の「異化」作用とは⑥

この多様化された現代で、どうにも古くさく、さらに現代口語でやるのは実に使いにくい短歌の存在意義とは何か。すなわち文芸としての短歌の現代的意義は何か。なんてことを考えると、もう、「異化」作用くらいしかないだろう、というようなことを、このテー…

短歌の「異化」作用とは⑤

前回、大辻隆弘の論考「確定条件の力」(『近代短歌の範型』所収)を引用しながら、斎藤茂吉の『赤光』の四首を掲出した。 すなわち、 氷きるをとこの口のたばこの火赤かりければ見て走りたり あかき面安らかに垂れ稚(をさ)な猿死にてし居れば灯があたりた…

短歌の「異化」作用とは④

今回からは、状況の「異化」とでもいえる、「異化」作用について、議論する。 状況の「異化」とは何か。 まずは、これら作品群の分析からはじめていこう。 氷きるをとこの口のたばこの火赤かりければ見て走りたり あかき面安らかに垂れ稚(をさ)な猿死にて…

短歌の「異化」作用とは③

前回「異化」作用とは、広義の比喩である、と主張して終えた。 それは、空を見上げて、空に浮かんでいる雲が、まるでゴジラのようにみえる、と発見したことで、ただの形状だった雲がもうゴジラにしか見えなくなってしまう、という作用と同じこと。これを書き…

短歌の「異化」作用とは②

前回より「異化」について議論をはじめた。 いくつか作品をあげて解説をしたが、前回取り上げた吉川宏志には、こんな素敵な作品もあった。 円形の和紙に貼りつく赤きひれ掬われしのち金魚は濡れる 吉川宏志『青蟬』 お祭りの縁日の金魚すくいの1コマ。水の…

短歌の「異化」作用とは①

今回から、テーマを変える。 「異化」について。 けれど、多分、内容は引き続き「韻文」についての議論になると思う。 万葉の時代から現在にいたるまで、いまだに生き残っている五七五七七の定型文芸が、現代でもなお、「短歌」と呼ばれる創作形式として存在…

短歌の「写生」を考える⑧

「写生」をテーマにしたお喋りも、とりあえず今回でまとめとしたい。 前回、次のような疑問を提出した。 それは、短歌の世界で、本当に<作者>の「主観」を排することなんてできるのだろうか、という疑問である。 筆者は、そんなことはできない、と考えてい…

短歌の「写生」を考える⑦

「写生」の話題である。 前回までの議論を整理しよう。 何を議論していたのかというと、これまでの「写生」と現代口語短歌の「写生」は、同じ「写生」でも、作品は違っているのではないか、という話題だった。 そして、その違いというのは、<作者>の「主観…

短歌の「写生」を考える⑥

前回、次のような仮説を提出した。 すなわち、現代短歌の「写生」作品は、これまでの近代短歌の読みとは、違う読みを求めているのではないか、という仮説だった。 では、この仮説を検証するために、近代と現代の2つの「写生」作品を並べてみよう。 瓶にさす…

短歌の「写生」を考える⑤

前回からの続きである。 短歌の「写生」でいうところの<私>の「感動」というのは、<作者>の「感動」から、<主体>の「感動」へと変化したのではないか、と言う話題であった。 けど、その前に、しつこいようだが、<私性>の話を今一度。 やは肌のあつき…

短歌の「写生」を考える④

話を現代の「写生」に持っていきたいのだが、なかなかそこまでたどり着けない。 とにかく<私性>を片付けないと、現代短歌は論じることができない。 <私性>を論じるときに、<作者>とともに出てくる用語として<作中主体>とか<主体>といった用語があ…

短歌の「写生」を考える③

前回からの続きである。 「写生」の話であった。 ただ、現代短歌の「写生」を論じるには、どうしても<私性>の整理をしないと、議論が混乱する。なので、遠回りになるが、今回はまず<私性>についての整理からはじめる。 近代短歌では、作品の主人公は<作…

短歌の「写生」を考える②

前回、「写生」というのは、作者の意識である「主観」とか作者の心の動きである「感動」とかの作用によっている、というような議論をした。今回は、これら「写生」をめぐる用語の整理をしながら、「写生」についてさらに考えてみたいと思う。 用語の整理。ま…

短歌の「写生」を考える①

今回からは、近代短歌の重要理念である「写生」について議論したい。 ただし、これまでさんざんお喋りした「韻文」の魅力が引き続きのテーマであることには変わりはなく、おそらく、「韻文」の話題がところどころにぶり返されると予想される。 「写生」とは…

わからない歌⑫

前回からの続きである。 三月のつめたい光 つめたいね 牛乳パックにストローをさす 宇都宮敦『ピクニック』 この作品には、三句目にいきなり「つめたいね」と読者に同意を求めるような句が挟みこまれている。読者にとっては、「三月の光って、つめたいよね」…

わからない歌⑪

この「わからない」歌の連載も、三年目が終わろうとしている。はじめたときから、あまり先のことも考えず、その時その時で気が付いた話題を取り上げてきたせいもあり、だんだん収拾がつかなくなってきた。連載自体が漂流しはじめて、どこに着地するのか分か…

わからない歌⑩

前回、〈リアリティ〉というワードを出して、わからない歌をわかる歌にしようと試みた。次の作品も同様に〈リアリティ〉の追求で読み解ける。 白壁にたばこの灰で字を書こう思いつかないこすりつけよう 永井祐『日本の中でたのしく暮らす』 この作品、一年前…

わからない歌⑨

現代口語短歌には、一読、短歌とはどうにも認めがたい、ただの一行の散文のようなものが存在する。例えば、こんな歌。 あっ、ビデオになってた、って君の声の短い動画だ、海の 千種創一『砂丘律』 作者の千種創一は、「塔」短歌会所属で中東在住。第一歌集『…

わからない歌⑧

前回から検討しているのは、この作品だ。 撮ってたらそこまで来てあっという間で死ぬかと思ってほんとうに死ぬ 斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』 この歌は、死者を「わたし」にみたてて斉藤が作品化したのである。「作中主体=作者」とするならば、いわば斉藤が…

わからない歌⑦

斉藤斎藤は、初期の作品から、「私性」というものを追求している歌人である。短歌での「私」とは何かを執拗に突き詰めようとしている。ただし、それは、斉藤が作歌するなかでテーマとして浮上したのだと思う。はじまりは、現代社会のかけがえのない私、みた…

わからない歌⑥

斉藤斎藤『渡辺のわたし』の続きである。 着信を拒否られている北口の夕日がきれいですが、何か? モノローグとしても通用するけれど、普通に読めば、「主体」が、他者に話しかけているという設定となるだろう。けれど、この関係性は、かなり曖昧だ。親しい…

わからない歌⑤

斉藤斎藤『渡辺のわたし』は、会話ともモノローグともいえない独特の語り口で詠われている作品がある、という話題の続きである。 前回、掲出した作品を再掲しよう。 お名前何とおっしゃいましたっけと言われ斉藤としては斉藤とする 「こんにちは」との挨拶に…

わからない歌④

話の流れが斉藤斎藤の作品へといったので、今回からは、永井祐を離れて、斉藤斎藤の第一歌集『渡辺のわたし』から、「わからない歌」を掲出してみよう。 「お客さん」「いえ、渡辺です」「渡辺さん、お箸とスプーンをおつけしますか」 斉藤斎藤『渡辺のわた…

わからない歌③

前回は、「固定カメラ」「移動カメラ」という概念を使い、わからない歌を解釈した。今回も、この二つの概念を使って、作品を読み解いていくことにしよう。 今回、取り上げるのは次の二首。 赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり 斎藤茂吉『…

わからない歌②

前回に続いて永井祐『日本の中で楽しく暮らす』から作品を見ていこう。 白壁にたばこの灰で字を書こう思いつかないこすりつけよう 元気でねと本気で言ったらその言葉が届いた感じに笑ってくれた この二首を読んで、どう感じるであろうか。 言葉は平易で意味…

わからない歌①

(2019年初出の、歌誌の連載原稿を転載) 「わからない」歌をわかるようにしたい、そして、願わくば「いい」歌と読めるようにしたい、というのが、ここのところの話題であった。 今回は、永井祐の作品を取り上げる。 あの青い電車にもしもぶつかればはね…

わからない歌、わかる歌

現代の短歌には、一読「わからない」、という歌がある。 ただし、この「わからない」は、表現や言葉が難しくてわからない、というのではなく、表現は平易で言葉の連なりも正しいけれど、「え、この歌の何がいいの?」というような、いわば、「作品の良さがわ…

<内容>についてのまとめ

ここまで、このBlogでだらだらとお喋りしてきた議論のまとめの作業をしているが、今回は、<内容>についてまとめたい。 ただ、<内容>については、本Blogではたいした議論をしていないので、すぐに終わる。 短歌の世界では、どういう<内容>であれば、良…

<文体>についてのまとめ③

<文体>について議論している。 繰り返しになるが、短歌の<文体>について、大きな分類としては、次の3つだ。すなわち、 ・「近代短歌」の「私=作者」である<文体> ・「前衛短歌」からはじまる、「私=主体」である<文体> ・穂村の作品のような「語…