わからない歌⑤

 斉藤斎藤『渡辺のわたし』は、会話ともモノローグともいえない独特の語り口で詠われている作品がある、という話題の続きである。

 前回、掲出した作品を再掲しよう。

 

お名前何とおっしゃいましたっけと言われ斉藤としては斉藤とする

「こんにちは」との挨拶によりこのぼくをどうしてくれるというんですか

 

 こうした掲出歌は、はたして詩歌として鑑賞に耐えうる作品といえるのだろうか。

 まず、作品の語り口に注目しよう。こうした語り口は、たとえモノローグと規定してみたとしても、相手を想定してモノローグしている、ということはいえるであろう。あるいは、二首目はモノローグではなく、目の前の相手に向かって発した言葉を、そのまま書き留めたもの、という想定でも通じよう。

 では、これらの言葉は、誰に向けたものだろうか。

 この問いを考えることが、これら作品が「わからない」から「わかる」になる、とても大切なポイントだ。

 誰に向かって言っているか。少なくとも、恋人や友達や家族ではないだろう。そんな短歌の登場人物としてありがちな近しい人には、こうした言い方はしない。けれど、ただの知り合い、という感じでもない。どうやら、知り合いでもなく、顔を合わせて「こんにちは」とあいさつをしたり、名前をまだ覚えられていなかったりと、主体からはかなり遠い人のようである。もしかしたら、初対面の相手、といっても通用するような感じである。

 では、そうした、主体とはほとんどかかわりのない他人を言外に登場させることで、一首にどんな効果が生まれるか。

 効果の一つとして、「主体」がどういう人物なのかを他人に語らせているということをあげることができる。つまり、作品の登場人物としての「主体」(一首目では「斉藤」であり、二首目では「ぼく」という人)を、他人によって描写させる、という手法をこれらの作品では採用ではしているのである。ただし、短歌の作法では、描写は「主体」しかできない。これは、短歌のルールだから、これを曲げると、いろいろとややこしいことが起こる。だから、あくまでも、一首は「主体」のモノローグのようなもので構成されている。けど、そのモノローグは、他人が「主体」を見た時に発した言葉なり態度なりを受けて、「主体」が自分に対して感じたモノローグなのである。

 言い方を変えるならば、「主体」が、いったいどういう人物なのかということを、他人の口から語ってもらっているわけである。しかし、短歌のルール上、語るのは「主体」しかできないので、仕方なく、こうしたまわりくどい詠い方になっている、ということだ。

 一首目でいえば「われは、斉藤です」とは語らずに「われは、あなたが斉藤と呼ぶから、斉藤です」と語っているのである。

 では、なぜ、そうしたまわりくどい詠い方になっているのか。といえば、こうやって詠うことで、現代消費社会の顔のない人間のひとりであるわれの在り様、といった主題に迫ることができるという、斉藤斎藤の方略によるのだろう。成熟した現代社会のわれの在り様の合わせ鏡として、没個性的・マニュアル的な他者を登場させ、「こんにちは」と言わせたり「お名前なんでしたっけ」と言わせたりして、「主体」がかけがえのない「われ」であることを確認しているのである。

 

(『かぎろひ』2020年3月号所収)