前回取り上げた作品は、これだ。
非常勤講師のままで結婚もせずに さうだね、ただのくづだね
田口綾子『かざぐるま』
この作品は、現在口語短歌のモノローグで詠われている短歌の到達点であることは、前回、少し述べた。すなわち、口語で散文的な心のなかのつぶやきにもかかわらず、定型におさめてあり、屈折した調べながらも、<そうだね><くづだね>と対句的なリズムによって脚韻が整うことで歌としてまとまっている。他にも、一字空けと読点の違いや、旧かなによる「くづ」表記の効果など、この作品は、いろいろな分析が可能であろう。そうした形式主義的な批評が可能であるという点でも、この作品の短詩型文芸の批評に耐えうる完成度の高さがうかがえる。
さて、このような<わたしの想い>のつぶやきで一首まるまる詠まれている叙述様式を「モノローグ体」と呼ぼう。前回取り上げた、今橋や脇川の作品は、「モノローグ体」の短歌の初期のものととらえていい。また、一首まるまるではなく、一首のなかで主体が「モノローグ」している作品というのも、現代口語短歌では、そこそこの割合で詠われていよう。
では、作者側からみて、こうした「モノローグ体」の短歌で詠うメリットを考えてみたい。
この田口の作品に顕著なように、こうした「モノローグ体」で短歌定型におさめるのは、今や、かなりの技術が必要になる。もう、「武装解除」した「棒立ち」の時代ではなくなった。<非常勤講師の~>の作品のような完成度が求められる。にもかかわらず、こうした「モノローグ体」で詠うメリットはどんなことがあるだろう。
大きな理由としては、<わたしの想い>がダイレクトに叙述できるという点があるだろう。伝えたいことをそのまま伝えることができるというか、直球でずばり言いたいことを言い放つ、みたいな潔さというのを感じさせられよう。
では、その<わたしの想い>とは、いったい誰の<わたし>の<想い>か。
以前に本Blogで議論した<私性>についての議論を想起してほしい。
短歌作品には3者の<わたし>がいたのであった。
すなわち、
作者の<わたし>
話者の<わたし>
主体の<わたし>の3者である。
なので、<私性>を議論するときには、常に、この3者のなかの誰の<わたし>について議論しているのかを確認しなくてはいけない。
じゃあ、取り上げた<非常勤講師~>の作品にある、<わたしの想い>というのは、誰の<わたし>の想いか。というと、それは「主体」の<わたし>ということになる。
「主体」がモノローグしているのだ。
そのモノローグを「作者」が叙述している、という体裁をとっている。と、ここまではいいだろう。
では、「話者」の<わたし>はどこにいるだろうか。
と、いうと、実はこの作品には「話者」は存在しないのである。つまり、「モノローグ体」で叙述された短歌作品は「話者」がいない。「作者」と「主体」しか存在しない様式といえる。
多分、こういう様式は、散文ではありえないと思う。モノローグだけで小説世界を展開するのは無理じゃないか。星新一に代表されるショートショート程度のものならあるかもしれないが、それも、ちょっと自信がない。
それはともかく、短歌の世界では、「話者」の存在しない様式がこの「モノローグ体」では確認できる。これについて、例えば、次のように改作してみると、わかりやすい。
非常勤講師のままで結婚もせずに さうだね、ただのくづだね 原作
非常勤講師のままで結婚もせずに 私はくづだと思ふ 改作1
改作になると、「話者」の存在が生まれてきているのがわかるだろうか。
いまひとつ分からない、というのなら、いっそのこと散文にしてしまおう。これなら、イヤでもわかるだろう。こんな感じだ。
非常勤講師のままで結婚もせずに さうだね、ただのくづだね。と、私は思った。
改作2
この改作2で言えば、はじめのセンテンスが、主人公のモノローグ。そして、次のセンテンスが「話者」の語り、ということになる。
同様に、改作1の短歌作品でいえば、<私はくづだと思ふ>の部分が「話者」の語りということだ。すくなくとも、<私はくづだと思ふ>とモノローグする人はいない。そうなると、ここの叙述は「主体」以外の語り、すなわち「話者」の登場ということになる。
この「主体」「話者」「作者」の3者の区別の理解ができたであろうか。「モノローグ体」の短歌では、「話者」が存在しない。すなわち「主体」と「作者」の2者しかいない様式なのだ。では、そうした様式にすることで、作品にどんなメリットが生まれるか。
と、いうと、それは、先に言ったように、<わたしの想い>すなわち「主体」の想いがダイレクトに伝わるという効果があろう。ダイレクトに伝わるから、一首としての衝撃というか、言葉に強度が生まれよう。掲出歌でいえば、「くづ」という言葉から読者はかなりの衝撃を受けるはずだ。それは、モノローグで詠われているというだけではなく、一首まるまる「モノローグ体」で詠われているという、作品の構成によるところが大きい。
「話者」を介在させないことで、<わたしの想い>すなわち「主体」の想いがダイレクトに伝わる。そうした<わたしの想い>をダイレクトに伝えるために、すなわち「話者」を介在させないためには、どのような様式にすればいいか、といろいろと試行した帰結が「モノローグ体」の発見、ということもいえるのではないか。これが、今橋や脇川の「棒立ち」から数十年の間、試行されてきた現代口語短歌のひとつの到達である、という議論も成り立つのではないかと思われる。
もう一つ。
このような、「話者」が存在しない「作者」と「主体」だけの短歌作品というのは、「作者」と「主体」の距離が近くなる、ということも論点としてあげておこう。距離が近づくということは、「作者」と「主体」がイコールである、同一人物である、と読者が錯覚してしまいがちになるということだ。
掲出歌でいえば、「主体」のモノローグは、「作者」の肉声ではないか、と読者に錯覚をさせるという効果が生まれるのである。作者である田口綾子という女性が、非常勤講師で、独身で、自分のことを「くず」だと卑下している、と読者に錯覚させてしまうのである。
この点については、本Blogによる議論で、「作者」「話者」「主体」の3者の存在を提出した時点で、「作者」と「主体」が別人であることは確認されているから、今さら議論を蒸し返すつもりはないが、この一首だけを取り上げて批評するのに、「作者」が本当に、非常勤講師で、独身であるかどうかについて議論の俎上にあげる必要のないことは、改めて指摘しておこう。
ここで議論するべき論点は、「作者」イコール「主体」であると、読者に錯覚させるという様式上の効果についてだ。
つまり、そのように読者に錯覚させるメリットはあるのか、ということだ。
と、いうと、やはり作品の<リアリティ>ということに落ち着くのではないか。
<リアリティ>というのは、要は、本当っぽい、ということだ。この本当っぽい、というのは読者からのリアクションだ。作品を読んで、ああ、これは本当のことに違いない、と思うことが作品の<リアリティ>であり、作者からすれば、いかに読者に、本当っぽく思わせるように叙述するか、ということが歌作の技量ということになろう。
そうした、<リアリティ>の追求の試行のなかで、現代口語短歌は、ひとつの技法として「モノローグ体」という表現様式を生み出したのではないか。
じゃあ、どうして、「作者」と「主体」の距離が近づくと、あるいは、「作者」イコール「主体」に違いないと読者が錯覚すると、その作品に<リアリティ>が生まれるのだろう。
と、いうと、一つには、それは「近代短歌」が脈々と受け継いできた、アララギ系の写生の系譜のせいなんだろうと思う。
乱暴にいえば、子規の<瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとどかざりけり>に代表される、作者の見たまま、想ったままを歌に詠むのがいい短歌だ、という「近代短歌」の呪縛が、現代口語短歌でも受け継がれているからなんだと思う。
この「近代短歌」の系譜に現代口語短歌も存在している、ということが、まさしく文芸ジャンルとしての短歌の伝統とでもいうものであり、文芸ジャンルとしての短歌の歴史、すなわち短歌史というものである。なので、こうした伝統や歴史を無かったことにして、全然違う短歌を作る、というのは相当難しい作業になる。それは、もう短歌ではなく、短歌によく似た別の一行詩といったようなものになってしまうかもしれない。短歌史のなかでは、前衛短歌運動がそうだったといえなくもないが、これはまだまだ議論が必要なところだろう。短歌史の議論で、前衛短歌の位置づけは、まだ定まっていないだろうというのが私の現時点での認識だ。
それはともかく、現代口語短歌も「近代短歌」の写実の系譜に乗っかって、短歌の新しい表現様式を更新しようとしている、というのが実情だ。その更新のひとつとして、<リアリティ>を追求する様式の試行というのがあり、その実例として、今回議論している「モノローグ体」の様式化というのをあげることができるだろう。