短歌の「写生」を考える⑧

 「写生」をテーマにしたお喋りも、とりあえず今回でまとめとしたい。

 前回、次のような疑問を提出した。

 それは、短歌の世界で、本当に<作者>の「主観」を排することなんてできるのだろうか、という疑問である。

 筆者は、そんなことはできない、と考えている。

 近代短歌や前衛短歌、ニューウエイブあたりまでは、<作者>の「主観」が、作品に反映されているのは、いわば自明のことであった。「主観」というのは、<作者>なり<主体>なりが見たり思ったり考えたりした「感動」を、「韻文」化するときの作者の腕前みたいなものだ。なので、同じ「感動」を詠っても、<作者>の腕しだいで、いい作品にもそうでない作品にもなる、ということだ。

 では、もし、そんな「主観」をすべて排するとどうなるか、というと、筆者には、次の作品が思い浮かぶ。

 

 あっ、ビデオになってた、って君の声の短い動画だ、海の

                         千種創一『砂丘律』

 

 この作品は、ケータイかスマホから、流れてきた君の声の再現と、それを聞いた<主体>の「感動」だけを、言葉の断片として作品にしているもの、といえよう。

 筆者は、これは究極の「写生」だと思う。

 この作品に、<作者>の「主観」はあるか。

 言葉の断片だから、「韻文」になっていない。「感動」そのままが、定型に嵌まるわけがない。ここに、「主観」の形跡をみるのは困難だ。

 では、「韻文」でなければ、「散文」か、というとそうでもない。やはり、「散文」にするにも、何らかの<作者>の文章の腕というのが存在しよう。文芸一般では、そんな腕前のことを「文体」といったりもしていよう。

 それはともかく、「主観」を排している以上、「韻文」でも「散文」でもない、言葉の断片になってしまうのは、道理といえばそうであろう。

 ちなみに、この作品は、「短歌」であろうか。といえば、歌集にある以上は「短歌」であろう。もう、「短歌」という文芸形式は、五七五七七という定型の面からも、あるいは、詠われている内容の面からしても、定義づけのできなくなった文芸形式といっていいと思う。

 しかし、筆者としては、繰り返しになるが、掲出作品を「短歌」と認めるにしても、「韻文」とは認めない立場である。

 それはともかく、短歌の世界で、もしも、「主観」を排した作品が存在するなら、それは掲出作品のように、状況の描写や<主体>の「感動」を断片として叙述せざるを得ないのではないか、と思う。

 であるから、<作者>の「主観」を排して短歌を詠むというのは、短歌は「韻文」である、ということを棄ててしまうことだ、というのが筆者の意見である。

 けれど、短歌を詠むという行為で、「韻文」を棄てるなんてことは、さすがにどの歌人もちょっと変だなあと思うわけで、言葉の断片を作品化する究極の「写生」と呼べるような作品が現代口語短歌の最先端、ということにはなっていない。誤解のないように付け加えれば、掲出した作品の歌集『砂丘律』だって、掲出しているような言葉の断片の作品はごくわずかであり、ほとんどの作品は定型意識のみられる口語短歌の「韻文」だ。

 

 では、現代口語短歌の「写生」作品というのは、どういうものか。というと、毎回、同じ作品ばかりを掲出しているのだが、要は、こうした作品群だ。

 

 カーテンの隙間に見える雨が降る夜の手すりが水に濡れてる

                   仲田有里『マヨネーズ』

 真夜中はゆっくり歩く人たちの後ろから行く広い道の上

                   永井祐『広い世界と2や8や7』

 雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁

                   斉藤斎藤『渡辺のわたし』

 あれは鳶そっくり文字で書けそうな鳴き声だなと顔あげて見る

                   山川藍『いらっしゃい』

 フルーツのタルトをちゃんと予約した夜にみぞれがもう一度降る

                   土岐友浩『Bootleg

 

 これらの作品については、これまでの議論のなかで、<作者>の「主観」をできるだけ排している、という点を指摘した。そして、その理由として、<主体>の「感動」を叙述する以上は、作品のなかに<作者>の存在が邪魔になるから、という点をあげた。

 しかし、いくら<作者>の存在が邪魔であろうとも、<作者>の「主観」を完全に排することは不可能だ、というのが短歌形式の独特なところだ。つまり、<主体>の見たまま感じたまま考えたままを叙述しようにも、それを「韻文」化する以上は、<作者>の腕前が見えてしまう、ということなのだ。そこで、そうした<作者>の存在を隠すために、現代口語短歌では、悪戦苦闘しながら、様々なやり方を試行している、ということなんだと思う。

 様々なやり方とは、何か。

 それは、1首目のように、<作者>の存在を隠すために、できるだけ<主体>の「感動」を忠実にあらわすことで、あえて、おかしな日本語で叙述している、というやり方。

 あるいは、2首目や4首目のように、これまでの近代短歌にあったような一瞬を切り取るというようなやり方ではなく、わざとに<主体>を動かして、できるだけリアルタイムで実況中継のように叙述するという、やり方。2首目は、<主体>の「視点」、すなわち見たことをリアルタイムで叙述し、4首目は<主体>の「認識」、すなわち考えたことをリアルタイムで叙述している、という体裁になっていよう。

 あるいは、3首目のように、「なんでしょう」なんていう言い方で、<語り手>の存在に注目させることで、<作者>の存在を隠そうというやり方。ちなみに、この作品もまた、2首目と同様に、<主体>を動かしてもいよう。

 と、いうように、いろいろなやり方を試しながら、なんとかして、<主体>の「感動」だけを叙述しようとしているのだと思う。

 ただし、ここで注目すべきは、これらの作品群の定型はほぼ守られているという点だ。この点が、こうした作品群の重要なところである。

 つまり、五七五七七の定型を崩してしまうとそれはもう「短歌」とはいえないのではないか、というような、作者なりの考えを持って、その意識のもとで歌作しているというのが、こうした現代口語作品なんだと思う。しかも、ここでの定型というのは、ほんとにただ五七五七七だけのまさしく定型だ。調べとか、韻律とか、そんな「韻文」にかかわることには目をつぶって、多少の句跨りがあっても合計で三十一音だったら結果オーライでいいでしょ、みたいな定型だ。ここを崩しすぎると、どうも「短歌」というには、ちょっとマズいから、とりあえず定型だけは守っておきましょうといった感じの、ユルい考えだ。なぜユルい考えでとどまっているのかといえば、定型意識を突き詰めると、当然ながら調べの豊かさや韻律の美しさといった「韻文」への様式美へと向かわざるを得ず、そうなると、<作者>の「主観」という「韻文」化への腕前の議論になってしまうので、そうした議論は、避けたいからだ。

 なので、こうした作品群は、換言するなら、短歌の「定型」と<主体>の「感動」という両者の均衡を保つために、悪戦苦闘している状況下の作品、ということもいえる。

 

 以上が、現代口語短歌の先端部分の状況だ。

 では、こうした状況は、今後どうなるか。

 と、いうと、筆者は否定的な立場をとっている。

 つまり、こうした作品群について、短歌作品として疑問を持つ立場だ。

 なぜなら、

 日本語としておかしな文章が文芸作品として成立するとは思えないし、

 修辞を排した叙述が詩歌として成立するとは思えないし、

 韻律や調べの感じられない歌が韻文として成立するとは思えない、

からである。

 短歌が「韻文」である以上、「韻文」化するための<作者>の「主観」はどうやったって必要なのだ。排することはできない。それは、短歌で「韻文」を棄てる、ということになるからだ。で、排することができない以上、現代口語短歌であっても、いかに韻詩として文芸上の様式美を高めていくかという点は、やはり棄てようがないのである。

 と、筆者は思うのだけれど、現代口語短歌のトレンドは、<作者>の「主観」はできるだけ排し、そうはいうものの五七五七七の定型だけは守りましょう、ということになっている。すなわち、日本語の繋ぎがおかしく、修辞は排され、定型になっているけど調べや韻律の美しさの感じられないという作品が現代の流行りだ。

 というわけで、こうした作品群が今後、より洗練されていって、現代口語短歌の「写生」として確立されていくのか、あるいは、筆者の予想通り、一時の流行でおわって急速に廃れていくのか、それは、これからの推移を見守ることで明らかになるのだろう。

 

 以上で、「写生」については終わりだ。

 次回からは、また違うテーマでお喋りします。