短歌の「写生」を考える⑤

 前回からの続きである。

 短歌の「写生」でいうところの<私>の「感動」というのは、<作者>の「感動」から、<主体>の「感動」へと変化したのではないか、と言う話題であった。

 けど、その前に、しつこいようだが、<私性>の話を今一度。

 

 やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

                       与謝野晶子『みだれ髪』

 水蜜桃(すいみつ)の汁吸うごとく愛されて前世も我は女と思う

                       俵万智『チョコレート革命』

 

 こうやって明治と平成の作品を並べるとわかりやすいのではないかと思う。

 1首目。与謝野晶子の代表歌。この晶子の作品は、当時の若い晶子の率直な感性が詠われているとして、これまで読まれてきたし、これからもそうやって読まれていくに違いない。当時の明治の日本の時代性やら社会性やら女性像やら、はたまた晶子の気質やら感性やらといったいろんなものを背景にして、作品がこれまで批評されていったし、これからもそうやって批評されていくに違いない。

 では2首目の俵万智の作品はどうか。

 こちらは、不倫の女性が主人公の一首。これを俵万智本人のことを詠っているとして公の場で批評できるだろうか。というと、多分できないだろう。歌としては秀歌であるが、晶子の作品のように、作者のパーソナルな面を絡ませた批評なんてのは無理だろう。言葉を選びながら、テクストとして分析する形式主義的な批評となるのではないか。テクストの批評であれば、当然ながら主人公は<作者>ではなく<主体>と称することになる。

 この作品について、コラムニストの故ナンシー関が、作品の背後にあの俵万智の顔が浮かんでしまうのはいかがなものか、なんていう実にミもフタもないことを何かのコラムで書いていたが、こうしたナンシー関のような「読み」というのは、やはり近代短歌の「読み」なんだと思う。

 ただし、この俵の作品も、あと50年くらいしたら、普通に作者の属性やパーソナルな部分に踏みこんだ批評が普通になされるようになるとは思う。けど、同時代の私たちは、それは無理な話。そう考えるならば、現代短歌作品の「読み」というのは、作品に登場する<私>は<作者>ではなく<主体>として読んで鑑賞するというのが、「読み」の「作法」となっている、ということもいえるだろう。

 

 そういうわけで、以下の掲出する作品も、作品に登場する人物は<作者>ではなくて、<主体>としてとらえるのが現代短歌の「読み」の「作法」といえよう。

 

 カーテンの隙間に見える雨が降る夜の手すりが水に濡れてる

                   仲田有里『マヨネーズ』

 真夜中はゆっくり歩く人たちの後ろから行く広い道の上

                   永井祐『広い世界と2や8や7』

 雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁

                   斉藤斎藤『渡辺のわたし』

 フルーツのタルトをちゃんと予約した夜にみぞれがもう一度降る

                   土岐友浩『Bootleg

 あれは鳶そっくり文字で書けそうな鳴き声だなと顔あげて見る

                   山川藍『いらっしゃい』

 

 とりあえず、完全口語による現代の「写生」と呼べそうなものを掲出した。

 これらの作品は<主体>の「感動」を<作者>の「主観」によって「写生」している作品ということができる。

 これまでの議論で、作品で詠われている内容というのは、<主体>の「感動」、つまりは、<主体>が感じたことや考えたこと、ということでいいだろう。

 では、「主観」とは何だったか。というと、これは、「感動」したことを韻文へと叙述するための作用のようなものだ。前までの議論では「つなぎ」なんていう言葉で説明していた。石とか樹とかいったものを並べても短歌にはならない、短歌にするには、石や樹をつないで定型に嵌めなくてはいけない、といったようなことを議論したはずだ。

 こと短歌については、とにかく定型に嵌めて韻文にしなくちゃ、作品の魅力もなんもあったものではない。正岡子規の作品を例にあげるまでもなく、藤の花が畳に届かない、ことなんて、散文にしたって面白くもなんともない。韻文にしてはじめて、グッとくるのだ。なんて、ことも既に述べた。

 そして、そうした韻文にしようとする「つなぎ」のようなことを「主観」と称したのである。では、その定型に嵌めようとつないでいるのは誰か。というと、これは<作者>だ。つまり、<作者>が、石や樹をみた「感動」を韻文にしようと思って、石や樹の「感動」をつないではじめて短歌作品になる。

 そうなると、この「主観」というのは、<作者>の定型意識、あるいは、韻文意識といったものに大きく左右されることになる。と、いうか「主観」というくらいだから、<作者>が100人いれば100通りの「主観」があってしかるべきだろう。つまり、100人が石や樹を定型に嵌めてつなぐとするなら、100通りのつなぎ方があるということだ。

 さて、そうやって考えると、この「主観」というのは、実は、結構、技能的な面に関わっているということがわかるだろう。この「主観」には、ウマいヘタというか、優劣があるのである。

 「感動」によって詠われる作品の内容が同じようなことだとしても、その「感動」を<作者>が韻文にする技巧の優劣によって、作品がガラリとかわるのである。というか、そんなものは、当たり前といえば当たり前のことである。

 そのようなことを考えながら、先ほど掲出した、1首目を分析してみよう。

 

 カーテンの隙間に見える雨が降る夜の手すりが水に濡れてる

 

 難しい語句も、修辞もないので、するすると読むことができる。けど、じっくり読んでみると、どうにも日本語としておかしい部分がある。「カーテンの隙間に見える雨が降る」が日本語としておかしい箇所だ。「雨が降っている。その様が、カーテンの隙間から見える」というのが、正しい日本語だ。これを、一文にして、そのうえ定型にしようとしたから、おかしくなったのだ。ついでにいうと、次に続く「夜の」が、「雨が降る夜の」と、雨が降っている夜、ということなのか、「夜の手すり」と、手すりにかかっているのか、どちらにとることもできる。そこで、今回は、定型優位にしたがって、句跨りではなく、3句切れで解釈している。

 さて、そうやってみると、この「主観」は、ちょっといまひとつの「主観」ということがいえないか。もっと、韻文として、上手い詠い方というものがあったはずである。あるいは、短詩文芸作品として、しっかりと修辞を施して、詩歌として格調高く表現する、という方策をとることもできたはずである。

 そのうえ、<主体>の「感動」も、いまいちだ。雨が降っている様子がカーテンの隙間から見えていて、夜に見る手すりが雨に濡れているなあ、というかなり醒めた「感動」であり、その内容も、どうでもいい内容といえ、詩歌にするにはいまひとつピンとこない。

 つまり、この作品は、これまでの「写生」作品の読みにのっとると、「感動」も「主観」もいまひとつの作品ということになる。

 ただし、「感動」がいまひとつなのは、これまでの「写生」作品だって、いくつもあった。繰り返しになるが、子規の歌で、藤の花が畳にとどかないなんてのは、内容としてはたいしたことは詠っていないのだ。しかし、この子規の作品が名歌なのは、<主体>の「視線」がはっきりとわかり、そのため揺るぎない「構図」で<作者>が叙述しているからだ。そうした「主観」を韻文として定型に嵌めているからこそ、名歌となっているのだ。

 だから、「主観」は作品の優劣に大きく作用する。100人いれば100通りの「主観」がある、といったのは、先に述べた。

 では、掲出した、「カーテンの~」の作品は、「主観」がいまひとつの劣った作品、として片付けていいか。

 と、いうと、そうでない。そうじゃなく、この作品は、これまでの「写生」の読みとは、違う読みを求めているのではないか、と思う。

 では、違う読みというのは、どういう読みか、というと、できるだけ「主観」を排した「写生」作品としての読み、ではないか。というのが、筆者の主張である。

 次回、この仮説を検証していきたい。