口語短歌の最前線⑤

 前回からの続きである。前回より、〈主体〉の認識の流れ、というのをキーワードとして提出している。

 そもそも短歌作品というのは、〈作者〉の「感動」を詠む、というのが常道であった。ここでの「感動」というのは、深く心が震えるような「感動」ではなく、ちょっとした心の動き、といった程度のものだ。私たちは、そんな「感動」を、あれこれと言葉を入れ替えたり、比喩表現や駆使したりして定型にして作品化する。これがごく普通の歌作といえる。

 短歌の入門書には、一枚の写真を撮るように、なんて書かれていたりするが、見たモノやコトをそのまま詠むのが歌作のセオリーだ。短歌は短い詩型であるから、あれこれ詰め込むことはできない。ある一つの「感動」を一枚の写真のように一首に閉じ込めるというわけである。

 

 瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり

                        正岡子規『竹乃里歌』

 階くだり来る人ありてひとところ踊場にさす月に顕はる  

                        佐藤佐太郎『地表』

 電車から駅へとわたる一瞬にうすきひかりとして雨は降る

                        藪内亮輔『海蛇と珊瑚』

 

 一方で、二つの出来事を一首にまとめるという作品もあって、こちらは、写真の喩えでいえば、二枚で一組の写真といえようか。

たたかひは上海に起り居たりけり鳳仙花赤く散りゐたりけり 

                          斎藤茂吉『赤光』

  灰黄の枝をひろぐる林みゆ 亡びんとする愛恋ひとつ    

                          岡井隆『斉唱』

  ゆうぐれの前方後円墳に風 あのひとはなぜ泣いたのでしょう

                          田口綾子『かざぐるま』

 

 やや乱暴であるが、短歌作品というのは、こうやって作者の「感動」を一首に詰めている、ということができよう。

 しかし、〈主体〉の認識が流れている作品というのは、こうした作品群とは歌の構成が異なっている。写真のように一瞬を切り取るのではなく、いわば動画のようにダラダラと時間が流れているのである。そんな動画のようなダラダラしているのが、現代口語短歌のトレンドだ。

  真夜中はゆっくり歩く人たちの後ろから行く広い道の上

                     永井祐『広い世界と2や8や7』

  イルカがとぶイルカがおちる何も言っていないのにきみが「ん?」と振り向く

               初谷むい『花は泡、そこにいたって会いたいよ』

  寝ぐせをとても気に入って新聞の写真には船、それに乗りたい

                    平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』

 

 前回とは別の作品を掲出した。どの作品も、〈主体〉の認識が流れているのが分かるかと思う。

 ただし、認識の流れをただ叙述しても、短歌にはならない。短歌には「定型」という枷がある。これを崩したら「韻文」ではなく、「散文」になってしまう。そこで、「定型」を意識しながら、〈主体〉の認識の流れを、動画のように時間の経過が分かるよう叙述しているのが、こうした作品といえる。なので、これら作品群を、単におかしな日本語のよくわからないもの、と片付けてしまうのではなく、新たな表現技法を産み出そうと悪戦苦闘している作品、として鑑賞するのがいいと思う。

(「かぎろひ」2022年3月号 所収)