口語短歌の最前線④

 前回からの続きである。

 前回、〈主体〉の認識が流れている、という「読み方」を提示した。

 

 横浜はエレベーターでのぼっていくあいだも秋でたばこ吸いたい

                   永井祐『広い世界と2や8や7』

 〈主体〉がエレベーターで秋だなあと、状況を認識して、直後にたばこが吸いたくなった、ということ。それを一首に表している。読者は、そうした〈主体〉の認識の流れを鑑賞し、味わう、ということになる。もしかしたら、人によっては、ああ、そういうことってあるよねえ、わかるなあ、なんて共感するかもしれない。そんな読者がいれば、この作品はいい作品といえる。

 しかしながら、〈主体〉の認識の流れが叙述されている、ということは分かったとして、なぜこんなおかしな接続をしているのだろう。

 というと、そもそも私たちの認識というのは、言葉になる以前に、いろんなことをとりとめもなく認識しているといえないだろうか。作品に即していうなら、エレベーターに乗っているときに、秋だなと認識して、しかし、さほど深い感慨にひたることもなく、唐突にたばこが吸いたいな、と思うこともあるということだ。そして、エレベーターが目的の階に到着したら、秋だなと思ったことも、たばこが吸いたかったことも、認識の埒外になって、これから会う人のことを考えたり、あるいは、ずいぶん暗い廊下だなあ、とかまた別の認識をする、と、いえないだろうか。  

 つまり、こうしたおかしな日本語の作品というのは、〈主体〉の認識の流れに忠実に詠っているということがいえるのだ。

 このような歌の構成というのは、これまでの短歌にはありえなかった手法といえよう。

 少なくとも、短歌は定型である以上、定型に嵌るように構成する。そのうえで、いわゆるテニヲハをうまく使い統辞を駆使し、さらに、比喩や句切れや倒置や対句表現などの修辞を施し、最近では句切れや気跨りで調べにうねりをつけたりして、とにかく短歌作品として完成させていく、ということになる。

 しかし、この永井の作品みたいに、〈主体〉の認識の流れをそのまま詠んでみました、という体裁をとるなら、これまで培われてきた短歌作品ならではの統辞や修辞や調べの美しさなんかは、すべて捨てることになる。

 これは、相当なリスクである。〈主体〉のリアルさだけで作品世界を構築しようとしているのだから。

 こうした作品世界は、永井の歌集だけではなく、実は、最近の口語短歌にはわりとみられる手法である。現代のトレンドといっていいだろう。

 

 カーテンの隙間に見える雨が降る夜の手すりが水に濡れてる

                       仲田有里『マヨネーズ』

 雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁 

                       斉藤斎藤『渡辺のわたし』

 あれは鳶そっくり文字で書けそうな鳴き声だなと顔あげて見る

                       山川藍『いらっしゃい』

 

 三首ほど掲出したが、どの作品も、難しい修辞や表現を使っているわけではない。表現は平易であり、内容も分かり易いが、これまでの短歌作品とは明らかに違っている。この違いというのは、端的にいえば〈主体〉の認識が流れているかどうか、といえよう。

 

(「かぎろひ」2022年1月号所収)