短歌の「異化」作用とは③

 前回「異化」作用とは、広義の比喩である、と主張して終えた。

 それは、空を見上げて、空に浮かんでいる雲が、まるでゴジラのようにみえる、と発見したことで、ただの形状だった雲がもうゴジラにしか見えなくなってしまう、という作用と同じこと。これを書き言葉でやっている、ということだろうと主張した。

 短歌の「異化」作用が、広義の比喩である、というのは、どういうことか。

 前回まで、掲出した作品を、もう一度並べてみよう。

 

 おびただしき鶴の死体を折る妻の後ろに紅の月は来りき

                     小池光『廃駅』

 カレンダーの隅24/31 分母の日に逢う約束がある

                     吉川宏志『青蟬』

 晩夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の瓶の中にて

                     葛原妙子『葡萄木立』

 エレベーターわが前へ昇り来るまでを深き縦穴の前に待ちをり

                     田村元『昼の月』

 突き当たりの壁ぱっくりと開かれてエレベーターの奥行が増す

                     穂村弘『水中翼船炎上中』

 大正のマッチのラベルかなしいぞ球に乗る象日の丸をもつ 

                     岡部桂一郎『一点鐘』

 円形の和紙に貼りつく赤きひれ掬われしのち金魚は濡れる

                     吉川宏志『青蟬』

 

 1首目の小池の作品がわかりやすいと思う。状況としては、<主体>の妻が、月の登ってくるのが見える窓のある居間がどこかで、千羽鶴にする折鶴を折っていたのだろう。その折り鶴を見て、<主体>はそれを「鶴の死体」と喩えたわけだ。この比喩によって、日常の見慣れた「折鶴」というモノが、私たちは、これまでとは違う認識をするようになる。すなわち、「折鶴」というのは「鶴の死体を折る」ということなんだな、という認識だ。そうすることで、普段見慣れていた「折鶴」が「異化」される、ということだ。これが、短歌の「異化」作用だ。

 2首目も、同様に読者は認識できよう。普段みなれたカレンダーの月末のレイアウトを、算数の分数に喩えたわけである。これによって、あの隅っこの分部が、私たちには分数に見えるようになる。空に流れる雲が、一旦ゴジラに見えたら、もう、ゴジラ以外にはみえなくなってしまう、といった心象と同じといえるだろう。カレンダーのレイアウトが分数に「異化」されたのだ。

 3首目。瓶の中に酢が入って、卓上かどこかに置かれている、というありきたりな光景。これを、酢がまるで、瓶の中で立っているようだ、と喩えたことで、瓶の中の酢の存在が、あたかも意思をもった生命体であるかのごとく「異化」されたのである。

 4首目、5首目は「エレベーター」の「異化」。それぞれ、エレベーターが上下する空間を「深き縦穴」、エレベーターのドアの開閉を「突き当りの壁ぱっくりと開かれ」ると、隠喩で表すことによって、エレベーターが、地中へ誘う乗り物だったり、異次元へと導くまがまがしい乗り物だったり、と「異化」されるのである。

 6首目。こちらは、「マッチ箱」を悲しみの隠喩としてあらわしている、と解釈できよう。悲しみというのは、たとえるなら、ここにある「マッチ箱」のようなものさ、ということだ。こうやることで、ただの「マッチ箱」が悲しみの象徴のように「異化」されるのである。

 7首目。お祭りの縁日での金魚すくいですくわれた金魚が、和紙の上で、ぴちぴち跳ねている。その濡れている金魚を、すくわれたあとで金魚は濡れている、と言ったことで金魚の濡れている様が「異化」されている。では、すくわれる前の水の中にいる金魚は濡れていないか、というと、そんなワケはなく、濡れている。当然である。けれど、人間は、金魚が水の中にいるときには濡れているとは認識しないで、すくわれたときの赤いひれの様子をみて、はじめて「濡れている」と認識するのだ、と作者はいいたいのだろう。つまり、すくわれたときに、まるで「濡れている」かのようだ、と喩えているのだ、というわけだ。であれば、この「掬われしのち金魚は濡れる」は隠喩による「異化」作用といえよう。

 どうであろうか。「異化」は広義の比喩である、ということがわかったであろうか。

 比喩表現なのであるから、これは詩歌の修辞の技法のひとつといえるわけで、「異化」というのは、修辞技法を用いて作品に何らかの効果をもたらすという、詩歌の表現技法なのである。

 そのほかにも、コトやモノを「異化」している作品としては、このようなものがある。

 「異化」作用の面白さを味わいながら鑑賞してほしい。

 

 一冊のチューブファイルを探すため書庫へと降りてゆくときの海

                      田村元『昼の月』

 何年か前までは空だつたはずのフロアーで人とすれ違ひたり

 読み終へてわづかに軽き日経をたたんで降りる丸ノ内線

 

 蛇っぽい模様の筒に入れられた卒業証書は桜の匂い

                      穂村弘『水中翼船炎上中』

 そのなかに眼鏡浸せばぴかぴかになるという水に向かって歩む

 分別のためひとつずつたしかめる燃える人形燃えない人形

 

 2冊の歌集からそれぞれ3首掲出した。

 1首目。仕切りされて慌ただしく人が行きかうフロアから、書類だけが静かにしまわれている地下の「書庫」へ向かうと、そこは、まるで「海」のようだ、とたとえたことで、「書庫」を別のモノ、ここでは「海」に「異化」している。

 2首目。オフィスビルが建てられる前は空だったに違いないが、こうやって表現されることで、階上のフロアを見事に「異化」している。

 3首目。新聞の重量が変化するわけないんだけど、読み終えたことで「わづかに軽き」と喩えたことで、見慣れた新聞を「異化」している。

 こうやって、日常の見慣れたモノを「異化」するのは、短歌の得意とすることろといえよう。

 一方、穂村の作品。

 1首目、誰もが見たことのある、卒業証書や賞状を入れている筒。あれを「蛇っぽい模様」と喩えたことで、もう、あの筒は、蛇っぽいモノにしか見えなくなる。雲とゴジラ、折鶴と鶴の死体と同じ作用をもつ「異化」。

 2首目。眼鏡屋さんにいったら、見ることのできる、眼鏡の洗浄液。あれに浸すと眼鏡のレンズがみちがえるようにピカピカになるわけだけど、そんな短歌の歌材になんて普通なりそうもない、ありきたりなモノを詩歌にまで高めるのが「異化」の作用だ。これは、メガネの洗浄液が、何か「明るい未来」のようなものの象徴としてあらわされているといえようか。僕たちが歩いて向かう先は、言うなれば「眼鏡を浸せばピカピカにある水」のようなものだよと、喩えている。「マッチ箱」とかなしいぞ、と同じ構成といえよう。

 3首目。人形には「燃える人形」と「燃えない人形」がある、という表現したことで、人形が、おどろどろしいものへと「異化」された。作品としては、あざとさがちょいと鼻につくので、穂村の作品レベルからするとあまりいい歌という評価はできないかもしれない。これは、折鶴を鶴の死体と喩えたアザトサと同じといえよう。

 

 そういうわけで、ここまでの短歌の「異化」作用については、理解できたと思う。

 さて、短歌の「異化」作用がこうした修辞技法のひとつで終わるのであれば、そんなに深い話題でもない。というか、単に、短詩文芸特有の比喩技法のヴァリエーションとして、片付けてしまえばいいのであるが、短歌の「異化」は、これでは終わらない。

 実は、こうしたことだけではない、短歌ならではの「異化」作用というのがある。

 つまり、短歌という短詩型の韻文でしか表現することのできない「異化」作用というのがあるのだ。

 と、ここから先は、かなり複雑な議論になってくる。

 

 例えば、次の3首について、どう解釈しよう。

 

 両手でスマホを操作している人がいる電車は半分ぐらい混んでる

                 永井祐『広い世界と2や8や7』

 携帯のライトをつけるダンボールの角があらわれ廊下をすすむ

 座り方少しくずれて気持ち良くピンクのDSを見ているよ

 

 永井の歌集から三首掲出したが、一読、どんな印象を持つだろうか。

 三首とも平易な日本語だし、表現も簡単で、日頃短歌を読まない人でも、するすると読んで理解ことができるだろう。

 けれど、何か、居心地の悪さがしないだろうか。何か、変な感じがしないだろうか。

 それは、普通とは違う文章、あるいは、散文のようで散文では、こういう書き方をしない文章、といった感じか。

 この居心地の悪さ、というか、変な感じ、というのが、まさしく短歌の世界の「異化」なのだ。

 それは、日常の見慣れた状況が叙述されているはずが、なんか、普段とは違う書き方をしているので、日常とは違う状況のように感じる、といったものかもしれない。

 こういうわけで、ここからは、こうした、ちょっとした違和感の原因を議論していきたい。

 この違和感、いうなれば、コトやモノの「異化」とは違う、別の「異化」。とりあえず、状況の「異化」とでも名付けてられるような、「異化」と分類しておきたい。

 そんな、状況の「異化」。

 次回からは、この点について、じっくりと考えていきたいと思う。