短歌の「異化」作用とは②

 

 前回より「異化」について議論をはじめた。

 いくつか作品をあげて解説をしたが、前回取り上げた吉川宏志には、こんな素敵な作品もあった。

 

 円形の和紙に貼りつく赤きひれ掬われしのち金魚は濡れる

                       吉川宏志『青蟬』

 

 お祭りの縁日の金魚すくいの1コマ。水の中で金魚は濡れているのではなく、水から出たときにはじめて金魚は濡れるのだ、ということ。

 発見の歌というか認識の歌というか、そんな類の代表歌といえよう。

 これも、「異化」のバリエーションのひとつといっていいだろう。すくわれた金魚の濡れている様なんてのは、私たちには見慣れた光景であろうが、その様を、水から出たときにはじめて濡れた、と表現したことで、そんなありきたりの光景が「異化」されたのだ。

 

 さて、日常で私たちが見慣れたモノのひとつに、エレベーターがある。では、エレベーターを「異化」するには、どうやって詠ったらいいだろう。

 現代歌人は、こんな感じでエレベーターを「異化」している。

 

 エレベーターわが前へ昇り来るまでを深き縦穴の前に待ちをり

                       田村元『昼の月』

 突き当たりの壁ぱっくりと開かれてエレベーターの奥行が増す

                       穂村弘『水中翼船炎上中』

 

 いかがであろうか。

 一首目。エレベーターが上下する空間を、「深き縦穴」と表現することで、見事に「異化」された。前回掲出した、小池光の「おびただしき鶴の死体を折る妻の後ろに紅の月は来りき」を想起して欲しい。小池作品は、折鶴を折る様を「鶴の死体を折る」と表現した。こちらは、エレベーターの上下する空間を「深き縦穴」と表現する。このように、今まで当たり前に認識していたモノを、今までとは異なる表現をすることで「異化」していく。

 2首目。エレベーターのドアを「突き当たりの壁」として、それが「ぱっくりと割れて」と表現する。こうやることで、普段当たり前に見慣れているエレベーターのドアの開閉が、何か神秘的な入口に見えてくるようにもなる。「突き当たりの壁」と断言されたことで、エレベーターというのは、ドアが開くというよりは、壁が割れる、という表現の方がふさわしいようにも思えてくるではないか。

 

 ところで、短歌の世界には、「異化」の歌によく似ている歌として、「ただごと歌」というジャンルがある。

 「ただごと歌」の代表歌人といえば、奥村晃作だ。

 

 次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く

                     奥村晃作『三齢幼虫』

 権太坂完全舗装されたれどその道の持つ傾斜変わらず

                        同『キケンの水位』

 どこまでが空かと思い 結局は 地上スレスレまで空である

 

 3首ほど掲出したが、どの歌も解説は不要であろう。読んで、そのまま理解すればよい。だから、「読み」の批評もまったく必要ない。例えば、権太坂(ごんたざか)という具体が効いているかとか、3首目の字アケの効果とか、そんな議論は、この歌は求めていない。

 これらの歌は、ただ定型にはまっているだけで、およそ詩歌としての価値はない。というか、そんな価値を目指して作っているのではない。一読、アフォリズムっぽくみえるけど、そんなものを目指しているのでもない。いかなる価値づけをしてはいけない。つまりは、タダの歌であるから、「ただごと歌」なのだ。

 しかし、何も価値がないというのは、これは、なかなか難しい。人間と同じで、価値のない人間なんてのが、なかなかいないように、短歌もまた、一読、何の価値がないようにみえて、どこかに何かしらの価値がうまれてしまうものなのだ。

 例えば、同じ作者の作品に、

 

 運転手一人の判断でバスはいま追越車線に入りて行くなり

                       『父さんのうた』

 と、いうのがある。

 これは、ただごとっぽいけど、決して「ただごと歌」のジャンルには収まらないと思う。先にあげた3首とは、ちょいと毛色が違う。短詩型ならではのシャープさというか、切れ味というか、凄味というか、そんなものがあって、タダの無価値な歌とはいえないだろう。

 ほかにも、奥村の作品に、

 

 路の端(は)に体(たい)曲げをりし男性がタクシーに乗り運転手となる

                       『蟻ん子とガリバー』

 

 という歌があるが、これなども、そのまま理解したいところだけど、上句の風変りな男の描写から、「タクシーに乗り運転手となる」という断言は、アフォリズムとして理解できそうな感じもする。あるいは、「タクシーに乗り運転手となる」というおかしな日本語の使い方は、いかにも現代短歌の様式性をまとっている。

 また、

 

 フラミンゴ一本の脚で佇ちてをり一本の脚は腹に埋めて

                           『鬱と空』

 

 という歌。これもただごとといえばそうだけど、それよりも先に、抒情が匂いたってこないだろうか。乾いた抒情性といった感じか。そんな抒情がどこからくるのかというと、歌の内容もさることながら、「一本の脚」のリフレインや結句のおさめ方といった、技巧性による部分も大きく、詩歌としての完成度はすこぶる高い。

 

 ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペン買ひに文具店に行く

                         『鴇色の足』

 

 この作品は、奥村の「ただごと歌」の代表作ともいえるが、筆者はこれを「ただごと歌」というには、抵抗がある。というのも、歌の構成が非常にいいからだ。初句2句と3句4句の鏡面構成が、短歌の様式として美しさがある。これは、作者が詩歌として、キチンと作り込んでいる証左である。作り込んでいる以上、詩歌として何らかの価値づけを求めているといっていいだろう。

 であるならば、この作品は、「ただごと歌」ではなく、現代短歌の秀歌として鑑賞するにふさわしいと思う。

 

 と、いうわけで、「ただごと歌」というのは、案外に難しい。奥村の歌集を読み直してみても、無価値であることに価値がある、というような、「ただごと」は、存外に少ないものなのだ。

 と、話題は、「ただごと歌」の作品解説になってしまったので、話をもどそう。

 今一度、先にあげた、三首を読み直そう。

 

 次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く

 権太坂完全舗装されたれどその道の持つ傾斜変わらず

 どこまでが空かと思い 結局は 地上スレスレまで空である

 

 これらの歌は、一読、「異化」に似ている。

 この作品を読むことで、読者は、普段気にも留めていなかったコトやモノについての認識を新たにする。なるほど、同じ方向に向かっている車の運転手は、みんな同じ方向を向いているなあ、とか、坂というのは、どんな形態になっても傾斜というのは変わらないのか、とか、空は、見えている範囲すべてが空だな、とか、といった認識である。

 このように見慣れているモノやコトについて、作品を読むことで、認識を新たにするのが、「ただごと歌」の面白さなのだろう。繰り返しになるが、作品を読むことで、無価値であることに価値を見出す、といった感じである。

 では、そんな認識を新たにする作用を持つ「ただごと歌」であるが、「異化」作用の歌と何が違うのだろうか。というと、「ただごと歌」というのは、普段見慣れたものをそのまま見慣れているままに詠っているにすぎない、といえよう。だから「ただごと歌」なのだ。運転する人が前を向いている光景は、読む前も読む後も、何も読者には変わらないし、坂の傾斜だって、どんな形態になろうが坂の傾斜は変わらない。認識は新たにするが、目の前の傾斜は違って見えることはない。空は、見えているものすべてが空だ、といっているわけだから、光景を変えようとしているのではなく、見慣れた光景を見慣れたままに詠っているに過ぎないなのだ。

 これが「ただごと歌」だ。

 他方、「異化」というのは、これまでのモノやコトの見え方が、作品を通して、変わってしまうことだ。金魚が濡れている様の見え方が、作品を通すことで、変わってしまう。あるいは、普段見慣れているエレベーターの認識が、深き縦穴に見えたり、ぱっくりと開く壁へと、これまで見慣れていたエレベーターとは違う、別のものへと「異化」される。

 これが、「ただごと歌」と「異化」の歌の決定的な違いである。

 さらに言えば、「異化」の歌では、その見え方を変える方法として、本来のコトやモノを、ほかのコトやモノに見立てるというやり方をとる。

 つまり、「異化」とは広義の比喩なのだ。

 それは、空に浮かんでいる雲が、ゴジラのようにみえる、と発見することで、もう、ただの雲の形状だったものがゴジラにしか見えなくなる、という作用と同じだろう。これを書き言葉でやっている、ということだ。

 

 そういうわけで、次回は、短歌の「異化」作用というのは、広義の比喩である、という点について議論していく。