短歌の「写生」を考える②

 前回、「写生」というのは、作者の意識である「主観」とか作者の心の動きである「感動」とかの作用によっている、というような議論をした。今回は、これら「写生」をめぐる用語の整理をしながら、「写生」についてさらに考えてみたいと思う。

 

 用語の整理。まずは「韻文」。

「韻文」とは何か。

 というと、日本語で、何らかのリズムがあって、調子よく読み下しやすい文章ということだ。短歌の場合は、五七五七七という定型があるから、この定型の中にうまい具合に言葉が整っていれば、自然とリズムが生まれ調子よく読み下すことができる。

 なので、

 

  十四日、オ昼スギヨリ、歌ヲヨミニ、ワタクシ内ヘ、オイデクダサレ
                   (正岡子規の「はがき歌」より)

 

 は、レッキとした「韻文」になっている短歌である。

 しかし、

 

  花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった

                          吉川宏志『青蟬』

  「水菜買いにきた」/三時間高速をとばしてこのへやに/みずな/かいに。

                           今橋愛『O脚の膝』

  きのうの夜の君があまりにかっこよすぎて私は嫁にいきたくてたまらん

                                脇川飛鳥

 

 といった作品については、私はこれを「韻文」とは認めない立場である。

 ただし、「短歌」といえば、そうだろうとは思う。

 では、こうした作品、「韻文」じゃなければ「散文」なのか。というと、そう言い切るのも、ちょいとおかしな感じもする。なので、こうした作品は「散文調の短歌」なんて言い方がちょうどいいだろうと思っている。

 最近では、AIが自動で短歌を作成するなんて話題もあった。そんなどうでもいい短歌を、いちいちここで掲出しないけど、そうした言葉の羅列も、定型にはまっていれば「韻文」といえるだろう。

 極端な話、

 

 みじかびの きゃぷりてぃとれば すぎちょびれ すぎかきすらの はっぱふみふみ

                                 大橋巨泉

 

 も、当然「韻文」で、きっちり短歌定型にはまっている以上、「短歌」といっても差し支えはないだろう。

 と、いうことで、「韻文」というのは、書き言葉の「状態」を表すカテゴリーで、書かれている「内容」については関知しない、ということでいいだろう。

 ちなみに「短歌」は、というと、これは今や「韻文」よりも広い概念となって、現在では、定型ではなくても「これは短歌だ」といえば、それで「短歌」となされている、という、もの凄く曖昧な概念というか適当な概念といえるだろう。

 近世和歌から決別して「短歌」として130年もたっているという、そんな息の長い概念というのは、もう収拾がつかなくなってしまっている、というのが実情なんだろうと思う。

 

 それはともかく、話を「韻文」に戻して。

 この「韻文」を短歌形式として歌作するときには、当然、作者の「主観」が入り込むことになる。ここでの「主観」というのは、言葉を定型にはめようとする作者の意識、といったような意味合いだ。

 歌を作るとき、何もしないで勝手に定型にはまるわけがない。そこには、定型にしてリズムを整えて、何か心地よい調べにしようとする作者の意識が反映されるし、そもそもいい歌を詠もうという作者の意識といったものもあるだろう。そうした、作者の意識の反映を「主観」と呼ぶのである。

 なので、作者が見たものや感じたものや考えたものを、そのままダラダラと叙述したものは少なくとも「韻文」にはならない。では、「韻文」ではなければ「散文」でいいかというと、それも乱暴であろう。「散文」であっても、やはりそれなりの文の組み立ては必要になるから、それなりの作者の意識は反映されるだろうし、そもそもいい「散文」を書こうという作者の意識といったものもあるだろう。

 なので、「韻文」にせよ「散文」にせよ、文芸一般として叙述しようとするのであれば、修辞や統辞の技法を駆使して文芸作品として作り上げていこうという、作者の「主観」がおのずと反映されるはずだ。

 

 次に「感動」とは何か。

 普通一般に「感動」というのは、芸術作品や映画やスポーツなどを観て、深く心を動かされることを言うが、ここでの「感動」はそんな大げさな心の動きではない。

 日常のあるコトやモノから、作者が見たり感じたり考えたりすることを「感動」といっている。ちょっとした感情の動きいったものがここでの「感動」ということになる。

 こうした心の動きというのは、日常のモノやコトをスケッチすることである「写生」とは全く相容れないもののように思える。しかし、そんなスケッチをするにも、日常のコトやモノを見たり感じたり考えたりしないことには、叙述へとは至らないだろう、ということで、「感動」がないことには「写生」はできない、ということになるわけだ。つまり、「感動」することで、はじめて「写生」という叙述ができるということなのだ。

 

 そういうわけで、まとめるならば、短歌の「写生」というのは、作者が見たり感じたり考えたりしたモノやコトを、定型にはめようとする意識によって短歌形式で叙述していく作業、ということになるだろう。

 この「写生」という言葉を、歌作の場で使用するのなら、歌作の作業概念ということになろうし、作品批評の場で使用するのなら、技法や技術の概念、ということになるだろう。

 

 以上が、「写生」という用語とその周辺の用語の整理だ。

 

 こうした用語概念を踏まえて、改めて「写生」という用語を考えるなら、前回、小池光がいみじくも解説していたように、「ほとんど無規定概念」であり、「写生といえばどんなあらゆる歌もが写生の産物であるといい得るようになった」という解説がぴったりだ。

 だって作者の日常での「感動」を、作者の「主観」で叙述する、というのは、「短歌」の歌作にとっては当たり前のことであり、それをわざわざ「写生」という概念でとらえ直すというのもおかしな話だ、ということになる。

 そんな歌作の場にとっては当たり前の「写生」概念であるが、では、作者の「感動」や「主観」が反映していない「写生」作品というのは存在するだろうか。

 

 例えば、次の作品はどうだろう。

 

  あっ、ビデオになってた、って君の声の短い動画だ、海の

                           千種創一『砂丘律』

 

 この作品は、君の発話と<主体>のモノローグで構成されている。<主体>は、君がケータイで撮った動画を何かの拍子で観ている。その動画とは、君と海に行ったときのもので、君がケータイ操作を間違って動画モードにしたらしく「あっ、ビデオになってた」と君の声が聴こえて、すぐ静止したと思われるものだ。そして、その動画を観て、<主体>が「君の声の短い動画だ、海の」とモノローグしたのだ。

 

 さて、この作品には「感動」や「主観」が反映されているだろうか。

 もし、「感動」があるのであれば、君が声を聴いた<主体>の心の動きが何らかの描写で叙述されているはずだが、そうした描写はない。読者は、「って君の声の短い動画だ、海の」という<主体>のモノローグから「感動」を推し量るしかない。

 また、「主観」にいたっては、この作品は「主観」それ自体を排除しているかのようだ。つまり、作者の定型にはめようとする意識を排除するかのような叙述ではないか。

 この作品は「韻文」とはいえないだろう。ただし、「散文」でもない。それ以外のもの、文章の断片のようなものといった感じだ。

 では、この作品は「写生」ではないのか、というと、筆者には実に「写生」的に読める。きわめてリアルな叙述ではないか。リアルタイムで<主体>の見たものや感じたものや考えたものを、そのまま、書き言葉として叙述したもの、と読めないだろうか。作者の「感動」や「主観」を極力排して叙述しようとすると、この作品のような、定型からはずれ、ただ<主体>の見たものや感じたものや考えたものを、そのまま叙述するという、「韻文」でも「散文」でもない、ただの断片のようなものになるのではないか。

 筆者には、この作品こそがまさに、デッサン、すなわち「写生」じゃないか、と思うのだ。

 きっと、正岡子規も、この作品は「写生」作品と認めるに違いない。けど、その前に、そもそも「短歌」作品とは認めないとは思うけれど…。

 正岡子規から130年もたつと、こうした「短歌」が提出されるようになるのだ。

 

 「写生」については、次回以降もまだまだ考えていく。