現代口語短歌の「異化」の手法②

 短歌の「異化」の手法について考えるとき、そもそも日常のコトやモノを「韻文」で叙述すること自体、日常のコトやモノを「異化」している、とおおきく括ることができよう。だからこそ、日常のどうでもいい、ほんの些細な内容のことを詠っても、それなりに詩歌として認められるのだ。そのうえ、読者からは、いいなあ、とか、そうだようなあ、とか共感だって得ることができたりもする。

 そう考えるなら、何気ない日常のコトやモノを「写生」するという手法が近代以降の短歌の大きな潮流となっているのも、それなりの理由があるといえよう。

 しかし、そんな「韻文」の叙述であるが、これを現代口語でやろうとすると、どうにもうまくいかない。それは、口語というのは「散文」のための日本語で、「韻文」を叙述するために発達したわけではないからだ。それでも、口語で短歌を作ろうとする歌人は、あれこれ悪戦苦闘しながら、口語でも「韻文」として、端正で流麗な短歌作品を作ろうとしてきたといえるし、そうした試行は現在のところかなり成熟化してきており、ある程度、様式化してきている、ということもいえるだろう。

 しかし、そうした潮流ではない、もう一つの流れとして、端正とか流麗とかとは違う指向性による現代口語短歌作品というのも存在している。それは、「散文」であわらすと日本語としておかしい文章を「韻文」として叙述することで、叙述された状況を「異化」する、という手法である。

 読者としては、短歌作品を読んで、「何か変だな」とか「モヤッとする」といった、「違和感」が引き金となって、日常の見慣れた光景が、「異化」されて見えてくる、ということになる。

 これはこれで、短歌という短詩型文芸の一つの意義とはいえると思うし、現代口語短歌の「異化」の手法として認められよう。

 というようなことを前回まで述べた。

 では、そんな状況を「異化」する手法というのは、どういうものがあるか、ということについてこれから、細かくみていきたいと思う。

 いくつかに分類してそれぞれみていきたいと思うが、進めていくうちに、修正していくかもしれない。

 

 一つ目は、「語順の入れ替え」による「異化」。

 

 よれよれにジャケットがなるジャケットでジャケットでしないことをするから

                    永井祐『広い世界と2や8や7』

 雪の日に猫にさわった雪の日の猫にさわった そっと近づいて

 体当たり猫がしている 猫が体当たりしている 光の会話

 

 1首目。普通は「ジャケットがよれよれになる」。けど、「ジャケット」と「よれよれ」を入れ替えただけで、途端に日本語としておかしくなる。このおかしさが「異化」。語順の入れ替えによって「異化」作用をもたらすという手法である。

 2首目、3首目については、説明は不要と思う。この2首は、構成も同じ。入れ替えることで、「異化」されていくことが読者に伝わるよう構成されていよう。

 こうした、語順の入れ替えによる「異化」作用をもたらす手法は、結構お手軽なので、他の歌人の作品からも掲出できないかと思っていろいろ探してみたけど、永井の作品からしか見つけられなかった。慌てないでじっくりと歌集を探せば見つかるかもしれない。

 

 けど、これで話題が終わるのもなんなので、関連して、語順の入れ替えに似た手法として、ひとつのセンテンスや断片に別のセンテンスや断片を挿入する手法を取り上げておきたい。

 

 ぼくは君を、象が踏んでもこはれないアーム筆入れ、ふふふ好きだよ

                           大辻隆弘『水廊』

 真夜中のバドミントンが 月が暗いせいではないね 続かないのは

                          宇都宮隆『ピクニック』

 「奪われた三十年」と本当は あがらない雨 呼ぶべきなのだ

         山田航「エキゾチック茶番」(「短歌研究」2021年6月号)

 

 1首目が、「挿入」の最初期の頃の作品と思われる。ようは、「ぼくは君をふふふ好きだよ」というセンテンスに、「象が踏んでもこはれないアーム筆入れ」というセンテンス、当時のCMのキャッチコピーだったものを「挿入」したことで、作品に独特な雰囲気を醸し出した。というか、どちらかというと、「二物衝突」の応用みたいな感じだろう。

 であるから、この「挿入」の手法は、「異化」の文脈で語るのは難しいであろう。短詩型文芸で、別のセンテンスや断片が「挿入」されると、お互いのセンテンスや断片が共鳴し合う効果が得られる、といったような理屈をつけるのがいいと思われる。

 2首目。「真夜中のバドミントンが続かないのは」の間に、「月が暗いせいではないね」が「挿入」されていると読むことができる。3句4句と結句の「倒置」と読むこともできようが、そう読むと、日本語として無理が生じるので、あくまでも関連しているが別の断片としてとらえた方がいいだろう。

 3首目。こちらは、1首目と同じ構成。「「奪われた三十年」と本当は呼ぶべきなのだ」というセンテンスに「あがらない雨」という断片が「挿入」されている。こちらは、「奪われた三十年」と「あがらない雨」が完全に「ついている」のだけど、こうやって「挿入」の手法を使用することで、「つきすぎ」というよりも「共鳴」の方へと導かれている、といえるだろう。

 こうした「挿入」の手法は、現代口語短歌ではすっかり様式化された、というのが筆者の見立てだ。