現代口語短歌の「異化」の手法③

 前回は、「異化」作用の手法として「語順の入れ替え」による手法をあげた。

 今回は、2つ目として、「強引な接続」とでも呼べるものをあげる。

 

 掲出歌は、やはり永井祐『広い世界と2や8や7』から。

 

  君の好きな堺雅人が 電子レンジ開けては閉める今日と毎日

  明日と昨日ぜんぜん違う毎日にとなりのインターホンがきこえてる

  風の声なまあたたかい横浜のコーヒーを膝にこぼしたズボン

  秋がきてそのまま秋は長引いて隣りの電車がきれいな夕べ

  横浜はエレベーターでのぼっていくあいだも秋でたばこ吸いたい

 

 順に強引な「接続」がされている箇所をあげると。

 1首目。一字空けになっているから分かりやすい。2句終わりの「が」の格助詞が、どこにも繋がらず、唐突に別の文が接続されてしまっている。二物衝突ではなく、二文衝突(正確には二断片衝突だが)といった面白さがある。

 2首目。三句目「毎日に」の「に」。この接続がおかしい。この「に」によって、強引に2つの断片が接続されている。

 3首目。三句目「横浜の」の「の」。この「の」もどこにも接続されていない。「横浜のコーヒー」と接続されているという読みは無理だろう。

 4首目。三句目「長引いて」の「て」が強引な接続の部分。

 5首目は四句目の「秋で」の「で」が強引な接続の部分。

 

 こうした、「強引な接続」ともいえる、おかしな接続の日本語で叙述されることにより、そこで叙述されている状況が「異化」されている、と解釈することができる。読者にとっては、状況を把握しようにも、叙述されている日本語がおかしいから、状況がゆがんで理解される、といった感じであろうか。

 さて、この「強引な接続」だが、いわゆる「不条理」とよばれる作品と比べてみると、その違いが分かるかと思う。

 「不条理」な作品とは、以下のような作品をいう。今回は、髙瀨一誌の歌集から掲出してみよう。

 

  牛乳にて顔を洗うおとうとは部下をふやしつづけおり

                       髙瀨一誌『喝采

  なんでも串焼きにしてしまえば生きてゆくことも簡単である

  ああこれが夫婦かごうごうと電車がすぎゆくまでを待つ 

                       同『レセプション』

  横断歩道(ゼブラゾーン)にチョークで人型を書きもう一人を追加したり 

                       同『火ダルマ』

 

 一首目。牛乳で顔を洗うことと部下を増やすことには、何の関連もない。そこで、これらは何かの「隠喩」なのか、と考える。しかし、「隠喩」と読み解く手がかりはない。では、何かの「寓意」なのかとも考える。しかし、考えてもやはり徒労におわる。この作品は、関連性のない事柄を、「おとうとは」でくっつけているのだ。

 二首目。これを「箴言」と読んで理解してしまってはいけない。そんな何でも有難がるオメデタイ人になってはいけない。串焼きにすれば生きていくのが簡単になるなんて、そんなワケあるはずがない。この作品は、一読「箴言」にみえて、実は箴言めいたモノローグを詠っているもの、といえる。

 三首目。電車がすぎゆくのを待っていて「ああこれが夫婦か」と感嘆したわけだが、なぜ、そういう感慨を持ったのか、その理由が「わからない」。そう思ったから思ったのだとしか、読者は読みようがない。理由が「省略」されていることがわかるが、その「省略」を補う手がかりはない。この作品は、はじめから理由が欠落しているもの、といえる。

 四首目。横断歩道にチョークで人型を書いている時点で、もう「わからない」けれど、そこに、もう一人を追加したことで、一層わからなさが増している。「幻想」といえばそうだろう。しかし、チョークで人型を書き、そこからさらに追加するなんて、あまりに展開が突飛である。この作品は、脈絡なく話題が展開されているもの、といえる。

 

 このような作品は「わからない」状態のまま私たちに提示されている。これらの作品世界は、作品を構成するあれこれの常識がずらされているという意味で、「不条理」と呼ぶに相応しい。

 こうした「不条理」と呼ぶべき作品は、さきほどの永井の歌集にもある。

 

  鳩のようなきれいな顔があらわれてストレッチを一つおしえてくれる

  友達の生まれた日づけを祝おうとわたしはもやしをたくさん食べる

 

 1首目。鳩のような顔の人があらわれていることと、その人にストレッチを教えてもらうこととは何の関係もない。ここにこの作品の「不条理」性がみられる。

 2首目。上句の、「誕生日」を「友達の生まれた日づけ」と言い換えることで「誕生日」という言葉を「異化」しているところも愉しいが(ここはコトやモノを「異化」する手法、として以前に議論した)、それよりも、下句へ連なる「不条理」性の方が作品を特性づけていよう。友達の誕生日を祝うことと、<主体>がもやしをたくさん食べることの関連性は何もない。誕生日を豪華に祝うために、<主体>はもやしを食べて倹約をしているとでもいうのか。しかし、そう読むには、情報が少なすぎよう。やはり、この作品は、関連性のない事柄を繋げていることで強い「不条理」が生まれている、と解釈する方がいいだろう。

 

 こうした「不条理」を抱えた作品と、状況を「異化」する手法としての「強引な接続」とでも呼べる作品は、一読、同じ構成にみえる。どっちも「強引な接続」といえばそうだし、「不条理」といえばそうではないか。一体、何が違うのかと。

 しかし、この2つの作品群は、構成が違っている、というのが、筆者の主張である。

 では、さきほど掲出したを作品を並べて比較することで、どう構成が違っているのかをみてみよう。

 

  秋がきてそのまま秋は長引いて隣りの電車がきれいな夕べ

  鳩のようなきれいな顔があらわれてストレッチを一つおしえてくれる

  

 1首目が状況を「異化」している作品で、2首目が「不条理」性を抱えている作品だ。

 1首目は、上句の断片と下句の断片に何の関連性もない。秋が<主体>のもとにきて、秋が長引いている、という<主体>が認識した叙述と、とある夕べに隣の電車がきれいだと<主体>が認識した叙述が、「て」の接続詞で接続されている。本体、接続できない2つの断片が「て」という接続詞で接続しているために、おかしな日本語になっている。そこから、これら2つの状況が「異化」される、という構造となっている。

 一方の2首目。こちらは、上句と下句には関連性がある。鳩のような顔の人があらわれたという叙述があり、その人が、ストレッチを教えてくれた、ということだ。なので、この作品は「て」によってきちんと接続されている。日本語としては何もおかしくはない。しかし、内容はさっぱり分からない。なぜ、鳩のような顔の人が、ストレッチを教えているのか、分からない。であるから、こちらは、日本語として、「て」の用法は正しいが、内容は分からいという「不条理」の作品ということがいるのだ。

 両者の構造の違いが分かっただろうか。

 

君の好きな堺雅人が 電子レンジ開けては閉める今日と毎日

                   永井祐『広い世界と2や8や7』

牛乳にて顔を洗うおとうとは部下をふやしつづけおり

                   髙瀨一誌『喝采

 

 1首目が状況を「異化」している作品で、2首目が「不条理」性を抱えている作品だ。

 「が」と「は」の違いはあるが、どちらも格助詞で2つの断片を繋げている、という点は同じだ。

 1首目。「堺雅人が」の述語の記述がない。省略されているというか、<主体>の認識がそこで途切れた、といったような感じか。そして、途切れたまま、次に電子レンジの方に認識が移った、といったということなんだろう。それぞれ<主体>の異なる認識を並べればいいのに、片方を「が」の格助詞で切断しているので、日本語として成立しない作品となってしまっている。

 一方の2首目。こちらの「おとうとは」は主語であり、「つづけおり」の述語と対になっている。日本語としてのおかしさはない。おかしいのは、内容である。牛乳で顔をあらうことと、部下をふやしつづけることに関連性がないから、「不条理」なのだ。

 なお、この「不条理」性を、何とか分かろうとして、牛乳というのは健康なものだから、そうした健康な人間は部下を増やすような立派なサラリーマンになれるのだ、とかいった深読みをしようとすると、途端に、この作品の面白さが消滅する。同様に、永井のストレッチの歌も、鳩のようなきれいな顔の人だから、筋トレではなくストレッチのような柔らかい動きにふさわしい、といった読みもしないほうがいい。そうではなく、鳩のような顔の人がストレッチを教えるという、よく分からない状況をそのまま受け取って、その分からなさを愉しむ方が読みとしてはいいと思う。

 

 以上、これが、「不条理」の作品と比べた、「強引な接続」による状況の「異化」の作品である。

 まとめるならば、「強引な接続」というのは、日本語として成立しないはずの叙述を、韻文として提出しているもの、ということだ。そして、そうした、韻文を読者は読むことで、状況がゆがんで理解されるというか、なんか変だなあと感じて、結果、その叙述の状況が「異化」されて理解される、というのが今回の主張である。