わからない歌②

 前回に続いて永井祐『日本の中で楽しく暮らす』から作品を見ていこう。

 

 白壁にたばこの灰で字を書こう思いつかないこすりつけよう

 元気でねと本気で言ったらその言葉が届いた感じに笑ってくれた

 

 この二首を読んで、どう感じるであろうか。

 言葉は平易で意味も分かるが、何かおかしい、ちょっとした違和を感じるのではないだろうか。

 一首目。われは白壁を前にして煙草を吸っている。そして、煙草の灰で何か字を書こうと思う。けど、思いつかなかったので、煙草をこすりつけようとしている、という内容である。この一首に、われに関する三つのことが進行形で表現されていることに、気がついたであろうか。すなわち、「煙草の灰で字を書こうと思うわれ」「思いつかないわれ」「こすりつけようとするわれ」の三つである。この三つが現在進行形で動いている。ありていにいうと、一首の中に、三つのそれぞれの時間が、順に詠われている、ということである。実は、こうした時間の捉え方は、現代短歌ではじめてのことであった。

 …ということは、大辻隆弘と斉藤斎藤がすでに指摘しており、別に私の成果ではない。大辻は、「時間」でこの歌を説明し(大辻「多元化する『今』」『近代短歌の範型』六花書林)、斉藤は、大辻の主張を受けて「カメラ」で説明をしている(斉藤「文語の〈われわれ〉、口語の〈わ〉〈た〉〈し〉」『短歌研究』2014年11月号)。私としては、こちらの方が理解しやすい。つまり、これまでのいわゆる写実派の短歌は、カメラは固定されていたのだが、永井は、これを移動させて、映していると考えるとわかりやすい。散文では、三つの文にすれば書き表せようが、一行詩である短歌にはこうした発想はなかった。つまり、「白壁に煙草の灰で字を書こうと思ったけど、思いつかなかったので、こすりつけた」であれば一行詩になるけど、この歌は、そうは、いっていない。繰り返しになるが、「白壁にたばこの灰で字を書こう。思いつかない。こすりつけよう」と、三つの出来事を同じ時制で詠っている。これが、この歌から私たちが受ける違和であり、新しさである。

 二首目も同様である。こちらは、過去形が、同じ時系列でならんでいる、と考えるとよい。「本気で言った」と「届いた」と「笑ってくれた」という過去が並ぶ。こちらも「元気でねと本気で言ったら、その言葉が届いた感じの表情で、笑ってくれた」という時間の流れはない。三つの出来事を、同じ過去として詠っている。われが言ったからあなたは笑った、とは詠われていない。言った過去と届いた過去と笑った過去は、みんな同じ過去である。

 もう一首、「移動カメラ」で読む典型的な作品をあげる。

 

 コーヒーショップの2階はひろく真っ暗な窓の向こうに駅の光

 

 この作品については、東郷雄二が氏のウェブサイト「橄欖追放」で指摘しているが、「移動カメラ」という概念がないと読めない。つまり、これまでの歌の「読み方」では「わからない」歌の典型と思う。この作品は、われが、コーヒーショップに入り、二階に行き、窓に向かい、そこから駅の光をみた、という一連の行動を、ワンカットで詠ったという実験的な作品である。もし、これを従来の作歌の作法で詠うなら、われは、まずは、二階の広いコーヒーショップの窓辺の席についてなくてはならないだろう。そこから駅の光を見なくては、一首におさめられないのではないか、と思う。

 

(「かぎろひ」2019年9月号所収)