短歌の「異化」作用とは⑤

 前回、大辻隆弘の論考「確定条件の力」(『近代短歌の範型』所収)を引用しながら、斎藤茂吉の『赤光』の四首を掲出した。

 すなわち、

 

 氷きるをとこの口のたばこの火赤かりければ見て走りたり

 あかき面安らかに垂れ稚(をさ)な猿死にてし居れば灯があたりたり

 くれなゐの百日紅は咲きぬれど此きやうじんはもの云はずけり

 わが庭に鶩(あひる)ら啼きてゐたれども雪こそつもれ庭もほどろに

 

 の、四首である。

 大辻は、この四首が過剰であることを指摘し、その過剰さを「已然形+ば」「已然形+ど」「已然形+ども」の確定条件からくるものと主張した。

 つまり、「赤かりければ見て走りたり」「死にてし居れば灯があたりたり」「咲きぬれど此きやうじんはもの云はずけり」「啼きてゐたれども雪こそつもれ庭もほどろに」の表現が過剰であるというわけだ。

 こうした、「已然形+ば」ほかによる確定条件。これ、大辻は「過剰さ」という言い回しを使っているけれど、筆者にいわせれば、単純に日本語として「おかしい」使い方だと思う。

 日本語として、茂吉のような言葉の使い方は、単純におかしい。

 普通は、こういう使い方はしない。

 斎藤茂吉という大家が使い、韻文で、しかも文語だから、現代の私たちは、ふーん、そういう表現もアリかな、と思ってしまうけど、茂吉だろうが韻文だろうが文語だろうが、日本語としておかしなものはおかしいのだ。

「たばこの火が赤かったから、われはそれを見て走った」というのは、日本語として、普通は「~から」でつながらない。大辻が言うように「強引に因果関係で結びつけ」ているから、日本語として、おかしくなっているのだ。

 二首目以降も同様だ。

「赤い顔の子どもの猿が死んでいるから、身体に軒先の灯があたっているのだった」も、「あかいサルスベリが咲いているけれど、ここにいる精神病の患者は黙ったままだった」も「庭でアヒルがないているけれど、庭にうっすらと雪が積もっている」も、普通はつながらない2つの事象を「~から」や「~けれど」でつなげているから、日本語としておかしくなっている。

 こうした強引な因果関係、というか、そもそも因果関係たりえない状況を、「已然形+ば」ほかの確定条件によって、因果関係にしてしまう、ということが、この「おかしさ」の元凶なのだ。

 普通は、「たばこの火を見ながら、われは走った」とするのが順当な叙述である。

 同様に、2首目以降も、「幼い猿の死に顔に、灯りがあたっている」あたりが順当な叙述であろう。3首目、4首目であれば「サルスベリが咲いていて、狂人は黙っていた」「アヒルがなき、雪はつもる」と、並列関係にするのが順当な日本語の叙述だろう。

 因果関係にできないものを、強引に因果関係のあるものにしてしまえば、日本語として「おかしく」なるのは当然である。

 しかし、そんな「おかしい」叙述なのだが、「おかしい」ことで、何か普通とは違うことが生じた。

 これが、韻文の面白いところだ。句切れなく、一首をするすると、強引につなげてしまったので、日本語として、たしかに「おかしい」んだけど、それだけではないことが一首のなかに起こっている。

 それが、本稿のテーマである「異化」だ。

 氷屋の男の煙草の火が暗闇で赤く灯っている事象と、われが走っている事象とは、本来であれは、何の関係もない。つまり、因果関係はない。煙草の火を見つつ、我は走った、とするのが、順当な叙述だ。しかし、その関係のなかった二つの事象を、強引に因果関係があるものとして、「赤かったので、我は走った」と因果関係がある状況として叙述したことで、2つの事象がさも因果のある関係として、読者の眼前に立ち現れてしまった、ということになる。これが、「異化」だ。

 つまり、普通ではないつなぎ方をしたことによって、普通ではない状況が立ち現れた、ということだ。

 読者としては、何だかへんだなあとは思うけど、そう叙述されている以上、そのように状況を受け入れるわけだが、日本語としておかしいわけで、どうにもモヤッとした感覚が残る、という感じになる。そのモヤッとした感じを、例えば、大辻であれば、青年茂吉の若さによる過剰さなのだ、といったように結論づけたりするわけである。

 同様に、「幼い猿の死に顔に、灯りがあたっている」という状況を、「幼い猿が死んでいるから、灯りがあたっている」と因果関係のある状況に叙述したことで、その状況が「異化」されるのだ。3首目、4首目も同様である。

 いかがであろうか。

 これが、状況の「異化」ともいえる作用である。

 今回、茂吉の作品で取り上げたのは、2つ事象を、おかしなつなぎ方でつなげることで、普通ではない状況を生み出している、といった「異化」だ。

 これ、あんまり露骨にやると、日本語として完全におかしくなるので、作品としてはぶち壊しになるが、露骨過ぎずに、よくわからないけどなんか変な感じ程度におさえておけば、「異化」作用としては、じゅうぶん成功する、といえるだろう。

 

 さて、茂吉のこうした叙述だが、茂吉としては、別に状況を「異化」しようとして、こうした表現をしているのではないだろう。

 それは、大辻の言うように、「茂吉の過剰な熱意や過剰な自意識」によるものであり、若い茂吉の「青年の心のエネルギー」といったようなものが、こうした、過剰な表現をさせているのだろう。なので、茂吉のこうした作品というのは、結果として、はからずも、「異化」が生まれた、ということがいえる。

 では、はじめから「異化」するのを意図した短歌作品には、どういうものがあるか。

 ということを、次回、議論していきたいと思う。