短歌の「リアル」⑦~口語短歌編その2

 前回までは、口語短歌というのは、時間軸を移動させながら現在形で詠うのが基本的な方法である、ということを議論した。

 では、どういう作品がそういえるのか、確認してみたい。

 

白壁にたばこの灰で字を書こう思いつかないこすりつけよう

                  永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

 

この歌には、3つの現在がある。すなわち、

 

・白壁にたばこの灰で字を書こうと思った瞬間

・思いつかずに諦めた瞬間

・煙草をこすりつけようと思った瞬間

 

の3つだ。

この3つの瞬間を1首にまとめたというわけだ。

大辻は言う。

 

このように永井の歌において時間の定点はひとつではなく多元化されている。そして、作者はそのつど異なった「今」の間を移動し、それぞれの「今」の上に立って叙述内容を言表してゆく。永井の歌において、作者はその場その場において「今この時」という現在だけを感知し、その心情をそのつど言表し、慌しく時間軸の上を走り去ってゆくのである。

(前掲書)

 

 前回引用した、斉藤斎藤のいう「口語短歌の話者は、特定の時点に固定されてはおらず、時間軸を移動しながら発話している」も、同様なことを言っていよう。

 

 では、両者の違いは何なのか。

 それは、口語短歌が現在形で詠うのかどうしてか、というところだ。

 大辻の論旨によれば、文語の精緻な時制の叙述と比べるかたちで、

・現代口語は、過去や完了を表す助詞や助動詞が(近代文語短歌と比べて)、貧困なためだ。

・現代の若者たちが、生きている様々に変化する「今」をできる限り正直に記述しようとするためだ。

 とする。

 他方、斉藤斎藤の論旨によれば、文語短歌の時制表現にも触れながら、

・そもそも、現代口語短歌は、過去や未来の出来事でも目の前で起こっていることとして詠うのが基本の方法なのだから、過去や完了の助詞や助動詞は不要なのだ。

・「今」に強くこだわるのは文語短歌のほうであって、口語短歌は、いくつもの「今」を一首で表現しているのだから、ひとつの「今」だけを詠おうとしているのではない。

と、する。

 この両者の違いについては、どちらも仮説の域は出ていないだろうとしたのは、前回述べた通りだ。

 

 なお、私の考える、現代口語で時間軸が移動する理由は、こうだ。

 近代の「言文一致」の運動による試行錯誤以降、話し言葉に文体を近づけていく過程で、散文芸術の世界では、モダリティがどんどん発達したといえまいか。モダリティとは、話し手の捉え方や述べ方を主観的に表すカテゴリーだが、例えば、物事を客観的に言う場合、

・コロナ第2波は来ない。

と断定すれば、これだけで終わる。が、主観をつっこむと、

・コロナ第2派は来ないと思う。

・コロナ第2派は来ないらしい。

・コロナ第2派は来ないに違いない。

・コロナ第2派は来ないかもしれない。

・コロナ第2派は来ないでちょうだいな。

・コロナ第2派は来ないでほしいと思っている。

・コロナ第2派は来ないと思っているがそうともいえない。

・コロナ第2派は来ないに違いないと思っているが、どうだろうか。

・コロナ第2派は来ないに違いないと思っているのは、私だけではないはずである、と考えられよう。

 と、どんどん文末が長くなる。

 そうなると、短歌文芸で、現代の自然な話し言葉を使って歌にしようとすると、当然ながら、字数がふえてしまい韻律として苦しくなる。

 そのために、立脚点主義をやめて、現在形で「今」がどんどん移動する「移動主義」とでもいえる<時制>で詠うことにしたのではないか。

 例えば、大辻の論考には、先にあげた永井の歌を文語に改作している部分がある。

 

白壁にたばこの灰で字を書こう思いつかないこすりつけよう 原作

吸い殻にて文字を書かむとしたりしが思いつかねばこすりつけたり 

                       大辻による文語改作

 

 これは、移動主義の永井の作品を、こすりつけた瞬間を時間の定点とした立脚点主義の文語体に改作をしたものだ。

 さて、この大辻による改作をさらに、口語に改作すると、次のようになろう

 

吸い殻で文字を書こうとしたけれど思いつかなかったのでこすりつけた 

                           筆者による口語改作

 

 原作の<字を書こう>が「字を書こうとしたけれど」と字数が増えている。<思いつかない>も、「思いつかなかったので」となる。<こすりつけよう>は「こすりつけた」の過去形、ただし、正確には「こすりつけようとした」だろう。

 なので、なぜ、口語短歌は立脚点主義をやめたのかというと、口語で、文語のような時制表現をとろうとすると、字数が必然的に増えてしまい、そうなると韻律的に苦しいので、やむなく移動主義になった、というのが、私の仮説だ。

 であるから、この永井の作品に代表されるいくつも「今」のある口語短歌というのは、私に言わせれば、近代短歌の亜種のようなものだ。だから、大辻が近代短歌の精緻な時制の叙述と比較して、現代口語短歌について、「肉厚で彫りの深い作者像を作りだすことは難しい」、と否定的に述べるが、そうでもないよ、と私は思う。

 つまり、こうした現代口語短歌も、近代文語短歌と同じく、肉厚で彫りの深い作者像を作りだすべく、わざわざ3つの出来事を1首に並べていると思うのだが、どうだろう。

 

 さて、話がずいぶんと脇道にそれたが、このBlogは「リアルの構造」についての話題であった。

 なので、そろそろ話をそちらに戻したいと思うが、先の永井の作品にリアリティはあるかと問われたら、私は、「ある」とこたえよう。

 では、この永井の歌では、なぜ、リアリティがあるといえるのか。

 という点を、次回、遠回りしたが、議論することにしよう。