わからない歌⑨

 現代口語短歌には、一読、短歌とはどうにも認めがたい、ただの一行の散文のようなものが存在する。例えば、こんな歌。

  あっ、ビデオになってた、って君の声の短い動画だ、海の  

                           千種創一『砂丘律』

 作者の千種創一は、「塔」短歌会所属で中東在住。第一歌集『砂丘律』で二〇一六年に日本歌人クラブ新人賞を受賞している。

 作品は、君の発話と主体のモノローグで構成されている、ということでいいだろう。主体は、君がケータイで撮った動画を何かの拍子で観ている。その動画とは、君と海に行ったときのもので、君がケータイ操作を間違って動画モードにしたらしく「あっ、ビデオになってた」と君の声が聴こえて、すぐ静止したと思われるものだ。そして、その動画を観て、主体が「君の声の短い動画だ、海の」とモノローグしたのだ。

 とりあえず、一首の読みとしては、そういうことでいいだろう。

 問題は、そうした出来事を、どうしてこんな短歌とは到底いえないような散文調の構成にしたのか、ということだ。ここが、どうにもわからないのではないだろうか。

 この謎を解くカギとして、〈リアリティ〉というワードを提出しよう。〈リアリティ〉とは、要は、〈本当〉、ということだ。自分の本当の気持ちを表現しようとしたら、こんな詠い方になったということ。

 ここから先は筆者の推測になるのだが、千種は、定型にリアリティを感じなくなっているのではないか。あるいは、千種には、自分のリアルな感情は定型には収まらない、という思いがあるのではないか。まして、モノローグならなおさらである。〈君の声の短い動画だ、海の〉とモノローグすることが、自分の感情のそのままの表現なのであり、それが定型にはまったりしたら、かえっておかしなことになる、と思っているのではないか。

 もうひとつ、作品の〈リアリティ〉を担保することとして、出来事や感情を想起した順に、そのまま並べた、いうことがいえる。この作品でいえば、動画が流れて、声が聞こえてきて、主体が〈君の声の短い動画だ、海の〉とモノローグした、という時間の経過をそのまま並べている。またモノローグの語順も、主体の想起したことをリアルに並べている。だから、「海での君の声の短い動画だ」ではなく、日本語の文章としておかしな語順になっているのである。

 他の作品も提出してみよう。これらも、先の提出歌と同じ一連にある。

  君がそのマフラー巻けば冬、けど来年は、いや、二人だ、冬だ

  おもちゃのような愛だったかも 歩道橋、鳩がすごい感じで飛んでた

 読点が打たれているのが特徴的であるが、自分の感情をそのまま詠えば、定型からはみだすことになるし、モノローグを想起した順番に並べたら、「てにをは」のない、プツプツとしたものになる。

 こうして、千種にとって、〈リアリティ〉を追求した結果が、このような作品になったのではないか。そして、こうした短歌とは到底いえないようなただの一行詩のようなもの、という構成も、即興的に詠ったというわけではなく、どのように一首を構成すれば〈リアリティ〉の担保される作品になるかということを、周到に計算して構成した、ということがいえるのだ。

(「かぎろひ」2020年11月号 所収)