短歌の「異化」作用とは⑦

 現代口語短歌の「異化」作用について議論している。

 日常のありふれた光景が、日本語のちょっとした違和によって「異化」されていく、短詩型ならではの状況の「異化」作用について述べてきた。

 今回は、今年、出版された平岡直子の第一歌集『みじかい髪も長い髪も炎』から、いくつか掲出してみたい。

 この歌集、現代口語短歌のなかでは、調べがたいへん心地よく、何なら歌の意味なんか考えなくても、この調べだけで十分に愉しめる作品がたくさんある。そんな調べの良さはどこからくるか、と、直感的に述べるなら、A音が一首に多いということと、結句に工夫がなされており、その構成によって口語短歌独特の調べを醸している、といったところがあげられよう。ちゃんと分析したら、いろいろと現代口語短歌の調べの良さの秘密が分かるかもしれない。

 しかし、今回は、「異化」についての話題なので、とにかく、叙述されている内容について、議論をしていきたい。

 

三越のライオン見つけられなくて悲しいだった 悲しいだった

                   平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』

渡さないですこしも心、木漏れ日が指の傷にみえて光った

新しい服をくぐった風のなか梅は花ひらくこと思い出す

あなたはあなたの脳と生きつつ地下鉄ですこし他人の肩にもたれた

あの時計は八時五分を告げるにも女を武器に尖った針よ

遊びおわったおもちゃで遊ぶ冬と夜 きみに触れずに雨がとおった

動物を食べたい きみのドーナツの油が眼鏡にこすれて曇る

きみの骨が埋まったからだを抱きよせているとき頭上に秒針のおと

ピアニストの腕クロスする天国のことを見てきたように話して

1時間立って話しておやすみを言ったきれいなホテルの前で

 

 10首ほど掲出したが、ほかにも面白い作品がたくさん。現代口語短歌の先端部分は、今こんな感じになっているというのが分かる作品群である。

 

 1首目。有名な一首。明からにおかしい日本語で、悲しみを「異化」している。ちょっとした違和とかではなく、おかしさが全開なので、あざといといえばそう。ただ、下句でリフレインしたことで、詩的効果を得た、ということはいえそうである。「悲しい気持ち」といった、よくある日常の感情を、おかしな日本語を使うことで、よくある悲しさではなく、イマココだけの一回性のかえがえのない悲しさなのだ、というような思いが伝わってくる、なんていう感じの批評になろうか。

 

 2首目。こちらも、三越のライオンと同じ技法。「すこしも心」が日本語として明らかにおかしなところ。

 原作の日本語を変えないのなら「渡さないで、すこしも私の心を」程度に言葉を補わないといけないだろう。あるいは、原作を改変するなら、「渡さないでいたい、少しの心さえも」あたりくらいで、やっと日常の日本語のようになる。作品では、自分の心を少しも他人に渡したくない、という<主体>の切実さ、といったような感情を、言葉をきちんと並べることすらできなくて、とても非常に切迫しているように表現するために、おかしな日本語で言葉足らずに叙述した、ということがいえるだろう。

 そのうえで、初句二句のそんな<主体>の感情と、三句以下の木漏れ日が指にあたっている状況の取り合わせを鑑賞する、ということなのだろう。

 「指の傷にみえて」というところと、初句二句の言葉足らず感がうまく共鳴していて、完成度の高い作品と思う。

 

 3首目。これは、ちょっとした違和の作品。上句と下句で、<語り手>の視点が統一されていないので、光景が「異化」されている、と、読むことができる。

 上句は、<主体>の感覚を<主体>にかわって<語り手>が語っている部分だ。「新しい服」が何かの隠喩かもしれないが、とにかく、風のなかにいるのは<主体>と梅の木で、その風を<主体>が感じているという状況を語っているのは<語り手>だ。一方、下句は、梅の話題になっている。この話題の提供者は誰かというと、これは<主体>ではない。<語り手>だ。<語り手>が、「梅は、花を開くことを思い出したんですよ」と、読者に語りはじめたのだ。つまり、<語り手>は<主体>の感覚の語りから、<語り手>自ら新しい話題を語り始めたのだ。これを、一首のなかでやっているので、おかしな感じになっているのだ。

 たとえば、次のような改作ならどうか。

 

 新しい季節になった風のなか梅は花ひらくこと思い出す    改作1

 新しい服をくぐった風のなか私は梅が花ひらくことを思う   改作2

 

 改作1なら、擬人化した梅の状況を<語り手>が語っている、と解釈できるし、改作2なら、<主体>の視点と同じ視点で<語り手>が語っている、と解釈できるだろう。こうした改作であれば、違和のない、普通の視点で描かれた作品となる。

 しかし、原作は、<語り手>の視点が統一されていないので、ちょっとした違和が作品に生まれており、そのせいによって、春の心地よい風が新しい服をまとった<主体>に吹き抜けた爽快な状況や、梅が開花した状況が「異化」されている、と解釈できるのである。

 なお、上句の<主体>は梅の木であり一首、すべてが梅の木の描写である、という読みもなくはないが、しかし、そうした読みで上記の読みを覆すだけの情報はこの作品にはないと思う。

 

 4首目。初句二句の比喩が面白い。この比喩によって、「あなた」の存在が途端に生々しいモノとして「異化」された。「感情」や「心」や「心臓」ではなく「脳」と生きていると詠う。こうした、言葉の斡旋が、詩人の美質なのだと思う。

 人物を描写するときには、その人物の特徴を端的に述べる必要があって、短歌の場合は、短いから、それこそ多様な人物描写のテクニックがあるわけだけど、そんな小手先の描写ではなく、鮮やかな比喩によって、かけがえのない「あなた」を描写した、といえるだろう。「つつ」でつなげて、三句以降は、状況を地下鉄に限定し、その地下鉄でよくある光景でおさめたところも巧みである。

 

 5首目。冒頭の「あの」というダイクシスによって、対話形式の状況であることを示す。こうした、状況設定は、とてもうまい。しかし、<主体>の発話は、日本語として成立していない。こういう日本語を相手に使う日本人はいない。

 作品としては、意味を突き詰めるとつまんなくなってしまう類の作品なのだろうが、あえて、意味をとるのなら、「女を武器」という慣用表現を「異化」している、という解釈が成り立つであろう。であるから、結句の「よ」は必須というか、女を持ってきている以上は、わざと女性性を強調した終助詞を使っているということなのだろう。

 別の読者なら、もっと良い読みでできそうだが、筆者にはここまでだ。

 

 6首目。上句のリフレインが愉しい。ここは、「冬と夜」の並列が「異化」の部分。「冬の夜」の誤植ではない。冬の夜に、遊び終わったおもちゃで、まだ、だらだらと遊んでいるという状況を「異化」したかったのだろう。ほとんど感覚として作品の叙述を愉しむ、いった類になるのかもしれない。「冬であり夜であった」という叙述を省略すると「冬と夜」となる、いうことだろう。なお、下句は、読者各々が各々で鑑賞するしかないと思われる。何かの比喩として読むやり方もあるだろうが、筆者には、うまい鑑賞ができなかった。

 

 7首目。冒頭の散文調の叙述から、韻文定型へとおさまっていくのが面白い。こうした作品からも、作者は韻文をきちんと意識して歌作していることが分かる。頭に浮かんだフレーズを適当に並べてみたら定型になりました、というのでは決してなく、はじめから韻文として表現するためにあれこれ構成を考えた末の叙述なのだ。

 「動物を食べたい」というのは、肉料理の比喩というよりも、<主体>のモノローグというか発話の体裁になっているので、<主体>がホントに野生の動物を食べたい、といった感情を叙述した、と、読んだほうがいいだろう。ただし、「きみの~」以下は、筆者には解釈不能。どうやったら、ドーナツの油が眼鏡にこすれるのか、その状況が理解できない。まさか、たべたい動物をドーナツにした、というわけではないだろう。ドーナツを食べながら、こんな甘いモノじゃなく動物が食べたい、と思ったとしても、近くで食べている君のドーナツの油が眼鏡にこすれる状況がよくわならない。

 

 8首目。これは、キレイに比喩のきまった作品。「きみの骨が埋まったからだ」と表現することで、ごく普通の人間の身体が「異化」された。「骨が埋まった」という叙述は、誰もが死者の埋葬をイメージするはずだ。そのイメージで生きている君を抱きよせている状況を詠ったところが詩歌として優れているといえよう。

 読者はそのうえで、埋葬のイメージと「秒針のおと」の取り合せを鑑賞するのだろうけど、これは、筆者はあまりうまくいっていない感じはする。秒針のおとで、ちょっとした強迫性とか切実性とかを感じるのかもしれないが、筆者には、そこまで読み切ることはできなかった。

 

 9首目。初句2句は、ピアノリサイタルなどでは、だれもが見たことのある光景。ピアニストが腕を交差して演奏する場面なんてのは、難度の高いソナタなどではよく見られるものだ。音として聴く分には普通に心地よいが、見る分には目に残る光景といえる。その状況と、三句以下の<主体>の他者への呼びかけの取り合わせを愉しむ作品。

 三句以下の比喩が詩的に表現されているので、初句2句のよくある光景が「異化」されたということができようか。ピアニストが腕をクロスして鳴らす音の響きは、天国のなのかもしれないと思わせる。

 

 10首目。ホテルの前で話しをした内容を叙述するのではなく、立って、話しておやすみを言ったことと、きれいなホテルだった、ということ叙述しているという作品。

 つまり、<主体>にとっては、1時間の立ち話が重要であり、おやすみを言ったことが重要であり、さらにそれらの行為が、きれいなホテルの前でおこなった、ということが重要なのだ。<主体>にとっては、どんなことを話したのか、とか、その話からどんなことを感じたのか、といったことよりも、きれいなホテルの前で1時間の立ち話をしておやすみを言ったという、行為や状況のほうが重要なことになっているのだ。

 この作品では、「話して」と「おやすみを言った」という状況を並列にしているところがちょっとした違和といえるだろう。「立つ」と「話す」は、並列にすることができようが、「話す」と「言う」は、日本語として並べるには違和があるだろう。「1時間ほど立ち話をして、帰り際におやすみと言って別れた」といったような散文として叙述するのであれば日本語しての違和は感じないが、「立って話しておやすみを言った」と韻文で叙述されると、読者としては、オヤ?という感じになる。おそらく、この「おやすみを言った」という状況にアクセントを置くために、ちょっとした違和で表現した、ということなんだろうと思う。

 とにかく、こうした何気ない状況を何気ない状況として叙述しながらも、ちょっとした違和を挿入することで、ただの日本語のフレーズではない、韻文詩としての成立を図っている、というのが、現代口語短歌の先端部分だ。

 

 今年はこれでおしまい。

 次回は来年。少し長いお正月休みの後、再開します。