わからない歌、わかる歌

 現代の短歌には、一読「わからない」、という歌がある。

 ただし、この「わからない」は、表現や言葉が難しくてわからない、というのではなく、表現は平易で言葉の連なりも正しいけれど、「え、この歌の何がいいの?」というような、いわば、「作品の良さがわからない」といったわからなさではないだろうか。

 例えば、こんな歌。

 

ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は 

                          穂村弘『シンジケート』

 どうだろう、この「作品の良さ」が果たしてわかるだろうか。

 初句二句の〈ほんとうにおれのもんかよ〉は、主体のモノローグととらえていいだろう。そして、三句以降は倒置となっていて、冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は、ほんとうにおれのもんかよ…、と読めよう。

 で、「わからない」のは、〈卵置き場に落ちる涙〉、のところだろう。卵置き場というのは、どの冷蔵庫にも必ずある、卵を冷やすために空いている円形のあれ、だ。その卵置き場(の穴に)涙がポタリと落ちているのをみて、主体は嘆いているのだ。

 と、かなり詳しく歌の解説をしてみたけれど、多分、まだこの歌の良さはわからないと思う。

 そこで、この歌を並べてみよう。

 

東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる

                          石川啄木『一握の砂』

 この啄木の作品を「わからない」という人はいないだろう。青年期の孤独感とか寂寥感とかといった感情が実によく詠われていて、誰もが深く共感することだろう。

 では、再び穂村の作品を読み返してみよう。こちらも、啄木の作品と同じく、青年期の孤独感や寂寥感といったものを詠っていると読めないか。

 そうなると、ここでの「わかる」のと「わからない」との違いというのは、蟹と遊んでいるのと、冷蔵庫を開けて覗き込んでいるのとの違いとなろう。

 今、違いと言ったけど、実のところ、私は、どちらも戯画化されたオーバーな描写だな、と思っている。啄木の歌でいうと、哀しみを表現するのに、蟹と遊ぶイジけた描写で同情を誘うなんてなあ、と思うし、穂村の歌でいうと、卵置き場に涙を落とすなんて、ずいぶんとまあ哀しみをオーバーに表現したもんだな、と思う。つまり、歌の構図は啄木も穂村も同じなのだ。

であれば、あとは私たち読者が、卵置き場に涙する青年に抒情できるかどうかということになる。もし、蟹と遊んでいる戯画化された情景に抒情できるのなら、穂村の戯画化された情景にも抒情できると思うが、どうか。

 では、ここで、「わからない」が「わかる」ためのキーワードを提出しよう。それは、抒情だ。現代の歌人も、近代の歌人と同じく、抒情したがっているのだ。抒情したいがために昔も今も人は詠うのだ。と思えば、少しは現代短歌が身近に感じるのではないか。

 ということを踏まえて、次の作品をみてみよう。次はこんな歌。

 

女子トイレをはみ出している行列のしっぽがかなりせつなくて見る 

                      斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』

 コンサート会場の休憩時間とか、試合の終わったスタジアムの帰り際とかになると、女子トイレは大変混雑する。それは男子トイレの比ではない。トイレを待つ行列がトイレからはみだして通路にまで及んでいるなんてのは、いつだって女子トイレだ。主体は、そんな女子トイレからはみ出してしまった行列のしっぽを見ている。そして、それがかなりせつない、というのだ。何だか無理やり一文にしたような文体のねじけた感じも、主体の切なさを表現している、ともいえそうだ。

 しかしながら、多くの読者にとって、そうした女子トイレの光景はわりと見かけるものではあるけれど、それを見た主体が切なく思うことについては、さっぱり「わからない」のではないか。

 なので、先ほどと同じく、別の作品を並べてみよう。

 

白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ 

                        若山牧水海の声

 こちらはたいへんよくわかる作品だ。こちらの近代短歌の主体は、海辺で白鳥をみて哀しからずや…、と感嘆した。

 一方、斉藤のえがく現代の主体は、行列のしっぽをみて、せつない…、と感嘆している。つまり、私にいわせれば、どちらも何かを対象として抒情したがっているのだ。片や、海の上をただよう白鳥に、片や、女子トイレのはみだしている行列のしっぽに。抒情の対象が違うだけで、昔も今も、作歌の動機は同じなのだ。だから、牧水の歌の良さがわかる人は、斉藤の歌の良さもわかると思うが、どうだろう。

 せっかくなので、もう一首。

 

  ねむらないただ一本の樹となってあなたのワンピースに実を落とす

                          笹井宏之『ひとさらい』

 この作品については、先の穂村や斉藤の作品と比べて、一読「わかる」人が多いのではないかと思う。

 〈ねむらないただ一本の樹〉という、静謐でかつ幻想的なイメージ。〈ワンピース〉には清楚さや純潔さといったコノテーションが張り付いていよう。樹から落ちる〈実〉は、主体の分身であり、小さな生命の源であり、永遠性のメタファーともいえる。また、実が落ちる、のではなく、〈実を落とす〉という、主体の能動性を示す表現によって、主体の〈あなた〉に対するほの淡い情感も読み取れよう。

 作者の笹井は、幼少時から難病を患い、ほぼ寝たきりの状態で歌作をしていたという。瑞々しい抒情をたたえた作品を多く遺し、二十代で逝った。

 さて、この作品にも、近代の歌人の作品を並べてみよう。近代短歌で著名な病身の歌人、となると、そう、この歌人がふさわしい。

  瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとどかざりけり

                                正岡子規

 笹井は、現代の子規といってもいいだろう。

 ただ、子規の場合は、目に見えるものをひたすら写生することで抒情したのだが、笹井の場合は、イメージを自在に飛ばして作品にした。起き上がって自由にあちこち見て感じることができないからこそ、ベッドの中で自身の詩的イメージをひたすら純化させて、透明感のある作品世界を作りあげたのだ。

 そして、その作品世界は、広く私たちの共感を誘う。抒情をたたえた作品であるからこそ、私たちは、笹井の作品世界が「わかる」のだ。

 

(『旭川歌壇』2020年所収)