ここまで、このBlogでだらだらとお喋りしてきた議論のまとめの作業をしているが、今回は、<内容>についてまとめたい。
ただ、<内容>については、本Blogではたいした議論をしていないので、すぐに終わる。
短歌の世界では、どういう<内容>であれば、良い作品といえるのか。
というと、実は短歌は、何を詠ってもいいんだろうと思う。
どんな題材を歌にしても、詠い方によって、良い作品にもなれば、良くない作品にもなる、ということなんだろう。
そんな短歌なのだけど、一方で短歌は「抒情詩」ともいえるわけで、じゃあ、その<抒情>というのは一体何なのか、その正体がわかれば作品の良し悪しも多少は測れるのではないか、という前提のもと、本Blogでは、<抒情>する作品とはいかなる構造になっているのか、ということについて議論をした。
そこで、<抒情>の仕組みとして7回にわたって書き進めたのであるが、そこでも、話題を絞って、もっぱら<抒情>をもたらす「言葉」について議論した。
短歌には<抒情>する「言葉」というのが存在する。では、なぜその「言葉」があると人は<抒情>するのかというと、その「言葉」の<コノテーション>の作用によるのだ、といったような話を進めてきた。また、<コノテーション>の作用のほかにも、<コロケーションのずらし>と名付けた技法によっても、<抒情>ができる、ということについても、主張した。
この2つ、すなわち、<コノテーション>の作用、と、<コロケーションのずらし>についてが、今回、提出した話題であった。
さて、この2つは、広義の<比喩>表現にあたる。
そこで、<比喩>表現がどのように<抒情>をもたらすのか、という点について、次に話をはじめたところまでが、本Blogでの現在の状況である。
続きはまたの機会に、ということにしたいと思う。
と、いうところで、1年以上、60回以上にわたって長々と議論してきた、「名歌の仕組み」についてのテーマを閉じたいと思う。
次回からは、ここ最近、主に紙媒体で発表してきた雑文をあげていきたい。