<抒情>のしくみ⑦

 今回も、道券はな「嵌めてください」50首(第66回角川短歌賞受賞作品)のなかから、いくつか取り上げて、現代口語短歌の<抒情>の最前線を、みていくことにしよう。

 

 改札にPiTaPaをあてるこちらからくちづけをするような硬さで

 暑苦しい乳房(ちぶさ)を脱げばさえざえと硬貨のようないのちが残る

 スポンジに洗剤を足す満ち潮があなたの過去を濡らすあいだに

 皮膚いちまい隔てて触れるあなたには濁流がただとどろいている

 空調に耳をすませばあなたとは闇からそっと伸びてくる腕

 目を嵌めてください他人(ひと)のまなざしを受けて川面のようにかがやく

 

 1首目。2句切れの倒置。自動改札機にPiTaPaを当てた感触を独特の比喩で表している。さほど難しい事柄を詠っていない作品というのは、実は、韻律面に仕掛けが施されているものだが(例えば、パッとわかるのはK音とT音の優位性、そこから破裂音特有の律感の分析へと続けると面白い感じがする)、今回ははぶく。

 今回は、修辞、なかでも比喩表現を中心に、テクスト分析の手法を用いて作品を読み解くと、これまでの短歌の作品分析とは違った様相になるのではないか、という期待のもと、すすめる。

 さて、作品に戻ると、そのピタパを当てた感触と比喩表現が読者の共感を得られれば、歌としては成功したということになろう。こちらからくちづけをする状況とピタパを当てる状況は、比喩としてはピッタリしていて、分かりやすすぎるきらいがあるので、結句に「硬さ」という、穏便な<コロケーションのずらし>を持ってきたともいえる。ピタパを移動改札機に当てるのは「硬い」だろうから、ずらしていはいないが、こちらからくちづけをするのは「硬い」というのは穏便なずらしといえよう。普通にとらえれば、唇の感触が「硬い」ということになるのだが、なぜ、こちらから唇を当てると硬いのか、そこは、読み手がイメージを広げるしかない、ということになっている。唇の感覚が「硬い」のであって、<主体>の気持ちが「硬い」とは、このテクストからは読み取れないので、そう読まないほうがいいと思う。

 とにかく「つちづけをするような硬さで」の直喩をしっかり味わって<抒情>できれば、この作品は成功したといえよう。

 2首目。「乳房を脱ぐ」が隠喩であり、<コロケーションのずらし>。女性性を押し出した喩であり、近年であればジェンダーの論点から、批判的に受け取られるかもしれない。ただし、テクスト分析では、そうした社会学的視点は一切、分析指標に入れないのが作法となっている。基本的には、テクストだけを分析する。タブーを詠おうとも、差別を詠おうとも、そうした背景には、社会的文化的歴史的の要因からきているので、テクスト分析にはなじまない。別の視点での分析手法ということになる。

 それはともかく、「乳房を脱ぐ」。これは「乳房」の<コノテーション>に信頼した表現ということになるだろう。ありていに言えば、凡庸で常套的なエロスといったところか。他の人ならもっとウマく、このコノテーションを掬えるかもしれない。

 そんなありきたりなエロスをやめたら、「硬貨のようないのちが残」ったという。この比喩は飛躍しすぎていて、突き詰めても分からない。おそらくは硬貨の質感や大きさのイメージを期待しているのかなとも思うが、こういう比喩は、分かったような解釈をしないほうがいい。一方で、分からないといって否定もしないほうがいい。飛躍しすぎてテクストとして解釈不能である、としたうえで、各々が、その解釈できないテクストを味わうというのがいいと思う。分かったふうもしなくていいし、分からないからといって否定もしなくてよい。

 ただし、一首全体が、解釈不能であれば、それは支離滅裂のただのふざけた日本語のつながりに過ぎないので、これは、否定するしかない。けど、テクストの一部分である比喩が解釈不能というのは、短歌作品としては許容できると思う。なぜならば、他の部分が解釈の余地があるのであれば、その部分との整合性を確認することは可能と思われるからだ。また、韻詩であるから、韻律からの分析もできるので、一部分が解釈不能であるからといって、テクストを否定する立場はとらないほうがいいと思う。

 ちなみに、テクスト分析では、テクストに誤りがある、とか、瑕疵があるとかといった想定はしない。そんなことを言い出したら分析できないので、分析対象に誤りがあるという立場はとならい。

 そういうわけで、2首目は、上句の身体性の隠喩に共感をしつつ、下句の飛躍した比喩については、各々がイメージを広げて味わうしかないようである。3句目の「ひえびえと」のオノマトペも分析すると面白い感じもするが、ここでははぶく。

 3首目。2句切れの倒置。「満ち潮があなたの過去を濡らしている間に主体はスポンジを濡らす」ということ。「満ち潮が過去を濡らす」というのが隠喩であり<コロケーションのずらし>である。過去は濡れない。過去はせいぜい、しまっておくものくらいだ。そして、「満ち潮」。これが、分からない。こういうのを、分かったように、二人との「満ち足りた心情」の隠喩ととらえ、「過去のカサカサの風化したような出来事を、蘇らせてみる」なんていうような、テクストから読み取れないことを想像力豊かに解釈しないほうがいい。解釈してもいいけど、それは分析ではなく鑑賞の範囲である。そして、その鑑賞が他の人の賛同を得るかどうかは分からないし、そんな議論をすると、どんどんテクストから離れていくので、やっぱりやめたほうがいい。

 ここは、「満ち潮」のコノテーションで、「あなたの過去」のイメージをつかむというところまでで、あとは、読者の受け取り方に委ねられているのであろう。うまく、イメージをつかむことができれば、良い作品ということであり、つかめなければそうじゃない作品、ということになるのだと思う。

「スポンジに洗剤を足す」の入りで、作品全体が水のイメージで統一されており、満ち潮、過去を濡らすと連なっている。なので、初句のスポンジからの入りは、良い構成と思う。イメージが連鎖する倒置法は、きわめて高度な技法といえよう。

 4首目。上句の「皮膚いちまい隔てて触れる」をどう評価するか。皮膚と皮膚を重ねることを、「触れる」というだろうか。私は、ここは<コロケーションのずらし>が成功した部分とみる。「皮膚が触れる」というのは、日本語として新鮮な感じがする。「指に触れる」とか「肌に触れる」とかが、の日本語の<コロケーション>だと思う。なので、「皮膚に触れる」という表現は、詩歌としてはうまい喩法と思う。しかしながら、「皮膚いちまい隔てて」の表現は危うい。「皮膚を隔てて触れる」が正しいと思うが、この「いちまい」の表現を許容するかどうか。

 それはともかく、人には皮膚を隔てて触れている、という発見は、面白いといえる。そして、実際触れてみたら、「濁流がただとどろいてい」た。これは、隠喩。何の隠喩かは読者に委ねられている、という手法。これも、「濁流」を分かったような解釈で読み解こうとしない方がいい。あくまでも「濁流」から受ける<コノテーション>の範囲で、テクストから離れないで解釈するほうがいいと思う。「濁流」をあなたの内面のほとばしる感情と受け取りたいところであるが、そこまで受け取るには短歌は短すぎるし、この作品には、そこまでの説得力はないというのが、私の立場だ。だから、この喩が成功しているかどうかは、評価が分かれるのではないか、と思う。なお、この「濁流」の語句の選択については、韻律上の処理の面からの分析も必要であろう。

 5首目。空調に耳をすましていたら、あなたの腕が私に伸びてきた。という、状況を詩歌に昇華させた一首。2つの事柄を一首にまとめているのは、掲出歌でいうと、3首目と同様。ただし、こちらは倒置ではないので、よりすっと言葉が流れている。あまり流れ過ぎるのも詩歌としてはよくないので、結句を省略プラス体言止めにして、流れをすっととめている。ここの省略は、「そっと伸びてくる腕だ」とか「そっと伸びてくる腕だった」とか、の「だ」や「だった」の省略ということだろう。なので、「腕」が「あなた」そのもの、ということだ。提喩といえば、そうかもしれない。「そっと伸びてくる腕」という省略法でうまく<抒情>できたら、この作品は成功ということになる。

 6首目。50首連作の最後の作品。タイトルにした一首。こちらも、2句目の句割れの倒置。「他人のまなざしを受けて川面のように輝く目を嵌めてください」ということ。主体が、あなたに、目を嵌めてください、とお願いしている、という状況。この作品に限ったことではないが、これは50首連作なので、50首全体の構成から、「目を嵌める」という隠喩表現をみたほうがいいのだけど、今回は、作品をテクスト分析する試みなので、この一首だけをみて分析している。

 どのような目か、というと、川面のように輝く目、という比喩になっており、この喩は、イメージしやすいだろう。ただし、そのような輝きは、他人の眼差しを受けることで輝くのだという。ここが、ややこしい。まなざしを受けることで輝く目という、このややこしさを受け入れることができれば、高く評価できる作品といえるのではないか。

 また、「目を嵌める」は隠喩だが、<コロケーション>としては、ずれてはいないだろう。人形であれば「目を嵌める」とは言えるであろう。であるから、<主体>は人形のような受け身の状態であなたと対峙している、という状況として作品を構成した、ということはいえるであろう。

 

 ということで、ここまで。