<抒情>のしくみ⑥

 前回、<オノマトペ>についてお喋りをしてしまったために、何か寄り道をした感じになってしまったが、もともとは<抒情>がテーマであった。

 <抒情>の仕組みについて考えていたのだった。<抒情>の仕組み、そのメカニズムを考えようとしていた。

 前回までは、そのメカニズムを解明するひとつとして、<コノテーション>をとりあげた。詩歌のなかには、<抒情>する「言葉」があるのではないか、という仮説をたてて、その理由として<コノテーション>という修辞法があって、これが<抒情>させる用法なのではないか、ということを議論した。

 今回は、もうひとつの<抒情>の仕組みとして<コロケーション>の用法を取り上げたい。

 <コロケーション>とは何か。

 これは、平たくいえば、「言葉」と「言葉」のつながり方の慣習みたいなものである。

 と、説明したところで、これでは何を言っているかさっぱりピンとこないので、実例を示す。

 わかりやすい例としては、「将棋を指す」では、「将棋」と「指す」は<コロケーション>といえる。「将棋をする」といっても誤りではないが、普通の日本語なら、「将棋」は「指す」ものだ。同様に、「囲碁を打つ」は「囲碁をする」でも誤りではないが、普通、「囲碁」は「打つ」だ。では「相撲」は? というと、「相撲をする」ではなくて、「相撲をとる」というのが普通の日本語のつなげ方となる。ただし、「相撲をする」でも誤りではないので、「相撲をとる」が絶対正しい、と言うわけではなく、そういう慣習に日本語はなっている、ということだ。これが<コロケーション>、すなわち、「言葉」と「言葉」のつながり方の慣習みたいなもの、だ。

 こうした<コロケーション>は、ほかにもいろいろある。「傘」は?というと、「傘を使う」でも誤りではないが、「傘」といえば「さす」ものだろう。これが<コロケーション>。「ピアノ」は、「演奏する」ではなく「弾く」もの。「いびき」は「する」ものではなく「かく」もの。

 今のところは、「モノ」と「動作」の組み合わせの例をあげているが、他の組み合わせの<コロケーション>もある。が、今しばらくは、「モノ」と「動作」の組み合わせで議論を進めていこう。

 さて、こうした<コロケーション>であるが、これを意図的に「ずらし」て表現することもできる。

 例えば、「鳥がさえずる」ことを「鳥が歌う」と表現することは可能だ。「森が静か」な状態のことを「森は眠る」と言うこともできる。「風が吹く」を「風が誘う」とか、「短歌を鑑賞する」を「短歌を味わう」とか、いくつもある。これは、<擬人法>と呼ばれるものだ。「モノ」を「人」に見立てる表現といえるが、これまでの議論を踏まえるならば、「モノ」の「人の動作」のように「ずらし」て表現している、<コロケーションのずらし>ととらえることもできる。

 これを言い換えると、<コロケーションのずらし>というのは、<擬人法>のような、比喩法のひとつ、ということだ。そして、なんで、そうした比喩を使うのか、といえば、そうすることで、何らかの詩的効果が得られるから、ということになる。じゃあ、その何らかの詩的効果というのは何か、というと、それが<抒情>ではないか、というのが、ここからの話題だ。

 すなわち、<抒情>の仕組みとして、<コロケーションのずらし>という修辞用法が有効ではないか、というのがしばらくの話題となる。

 <コロケーションのずらし>という修辞用法が分かってきたところで、では、実際に作品を分析していくことにしよう。

 対象とするのは、今年度の第66回「角川短歌賞」受賞作品、道券はな「嵌めてください」50首作品より(角川「短歌」2020年11月号)。この50首には、現代口語短歌の修辞法、なかでも喩法がふんだんに使われている。

 

路地裏に探しあぐねる饒舌に匂うばかりの金木犀

キャプションに添えられている英訳は切り立つ崖のようにすずしく

足音というには繊(ほそ)い音を立て踵にひたと触れてくる影

 

 1首目。これは2句切れの倒置。「饒舌に匂うばかりの金木犀を、路地裏に探しあぐねる」ということ。「饒舌に匂う」が<コロケーションのずらし>。「饒舌」と「匂う」をつなげるのは、日本語としておかしい。「饒舌」は「匂う」ものではない。けれど、詩歌であれば、喩として成立する。あとは、「饒舌に匂っ」ている金木犀というものを読者がイメージできるかどうか。金木犀特有のむんむんむせ返るような匂いを「饒舌」のようだ、と喩えたわけだが、このようなイメージというのは、「饒舌」と「匂う」という、「言葉」からしかイメージができない。つまり、実景を写実的に詠むことで、読者にイメージを持たせようとするのとは、歌の作り方が違っている。

 どっちの作り方がいいかどうかはここで議論をする余裕はないが、前者の作り方のほうが、短歌でしかできない表現とはいえないだろうか。だって、「饒舌に匂っている金木犀」なんて、写真や映像では表現できない。これは「言葉」を扱って、修辞を駆使してイメージを楽しむ詩歌ならではの表現だと思う。

 それはともかく、読者からみて、「饒舌に匂う」がうまくイメージできれば、<抒情>も可能と思うがどうか。

 なお、この作品は、ほかにも、本Blogの<リアリティ>でさんざん議論した、「あぐねる」の現在形終止についてや、「路地裏」「金木犀」の<コノテーション>、韻律面からの技法からとか、いろいろ分析できるけど、関係ないので今回はやらない。というか、いろいろと分析ができてこそ詩歌というにふさわしいだろう。現代口語短歌もここまで、テクスト分析に耐えうる程に成熟している証左といえまいか。

 2首目。英訳がまるで崖のように涼しげに主体には見えた、ということ。「英訳は…すずしく」が<コロケーションのずらし>。「英訳」が「すずし」げに、主体には見えたと言っているのだが、「英訳」に涼しいも暑いもない。その<コロケーションのずらし>に「切り立つ崖のように」という直喩が挟まる。また、結句の「すずしく」は「すずしく見えた」の省略法、いわゆる「言いさし」の技法を使われている。というように、下句で3つの修辞法が使われているので、かなり複雑な構成となっている。そして、こうした詩的修辞によって<抒情>を導き出そうとしている、ということだ。こちらも「言葉」によって読者にイメージを持たせようとしている、詩歌ならではの表現だと思う。

 3首目。こちらは、先の2首よりも、かなり圧縮された状況を詠っているので、解凍が必要かもしれない。ほそい足音を立てながら誰かが主体に近づいてきていて、その誰かの影が主体の踵に触れたその瞬間…、という状況を詠っている。そうした状況を、主語を明確にせず、足音や影の状況だけを詠っているので、読み解くには難儀するということになる。

 そして、この作品、どうも上句と下句で文章がつながらない。ねじれている。ただ、そうしたねじれた文章は、これはこれで詩歌の技法なのだけど、<コロケーションのずらし>とは関係がないので、ここでは議論しない。

 この作品で、<コロケーションのずらし>があるのは、「触れてくる影」のところ。ただ、ほかにも下句では、フンダンに詩的修辞が施されている。

 まず、「触れてくる影」。ここは、結句体言止めに加えて、「影が主体の踵に触れてくる」の倒置と省略。次に、「ひたと触れてくる」の部分は、日本語として危うい現在形終止。ここは、「触れてきた」が多分正しい。「触れてくる」では、まだ、触れてはいない状態。触れていないのに、「ひたと」という副詞で修飾しているのは、日本語としておかしいだろう。そして、「影」が「触れてくる」という<コロケーションのずらし>。「影」は「触れ」たりしない。「影」は「さす」のが日本語の<コロケーション>だろう。なので、ここの「触れてくる影」は、<擬人法>としての<コロケーションのずらし>といえよう。

 そういうわけで、この「触れてくる影」の<コロケーションのずらし>プラス、先ほどの倒置や省略、さらに体言止め、さらに「影」の<コノテーション>などなど、すべてが混然一体となっている「触れてくる影」で<抒情>できれば、こうした詩的修辞はうまくいった、ということになるだろう。

 

 と、まずは3首ほど見てきたが、現代口語短歌は、一読するすると読めて淡泊な感じがするかもしれないが、こうやってテクストとしてしっかり分析しようとすると、結構、濃厚な味つけが施されていることがよくわかると思う。