短歌で虚構をやる理由

 前回まで、第66回角川短歌賞受賞作品の道券はな「嵌めてください」50首のなかから数首を分析したが、今年の角川短歌賞には、もう一つ受賞作品がある。

 それは、田中翠香「光射す海」50首である。この連作は、カメラマンが主人公の、シリア内戦の状況を連作にした、ルポルタージュ風の連作である。ドキュメンタリータッチの作品が並び、前回まで取り上げた「嵌めてください」のような詩的修辞は、ほぼ施されていない。ドキュメンタリータッチだから、比喩がはまらないのだ。

 

シリアへ、と我が告げれば不思議そうに瞳を向ける友の多さよ

トルコからシリアへ向かう検問の事務所にかかるルノワールの絵

死者たちはビニールシートにくるまれて半目を開けてみな空を見る

退避令、通信社より来たりけりこの街を捨て北へ逃げよと

「あまりにも生々しい」と拒否された通信社へと送りし写真

子供らの教師をしてと頼まれてカメラを置きて学校へゆく

夕暮れの難民キャンプを抜け出した少年と見る光射す海

 

 といった感じの、シリア内戦の臨場感あふれる連作なのだが、実は、作者は、カメラマンでもなく、シリアにも行っていないようだ。「受賞のことば」を引用すれば、

 <映画「娘は戦場で生まれた」の衝撃。この作品を観て得た熱量を原動力として想像と虚構を中心としつつ、ニュースや映画から得たものを織り交ぜながら受賞作を構成した。>

のである。

 「想像」と「虚構」がなぜ並列に語ることができるのか、筆者にはピンとこないが、とにかく、この連作は、作者の想像によって叙述された虚構である、ということだ。

 こうした作品が受賞されたことについては、今後、話題になるかもしれないので、話題になってから取り上げようと思ったが、そうなると、後出しジャンケンみたいな感じもするので、とりあえず、今回取り上げる。話題になったら、今後も取り上げるかもしれない。

 

 まず、虚構の問題について。これについては、本Blogでも何度か話題にしているので、すでに結論は出ている。それは、短歌をテクストとして取り上げるのであれば、虚構かどうかについては、議論の範疇にならない、ということ。有体にいえば、どうでもいい、ということだ。そもそもテクスト分析の手法自体が、小説世界すなわち虚構世界の文芸からの援用なんだから、そこは論点には上がらない。例えば、太宰治という作家がどんな人物なのかを知らなくても「人間失格」という小説を分析できるのがテクスト分析である。

 であるから、短歌作品でいえば、歌の内容は問わない、というのが、作品をテクストで分析をするということである。なので、作品の内容が、ホントに見たものなのか、見てきたようなウソなのか、については、議論の俎上に載せない、という立場だ。

 と、ここまでは、作品分析、すなわち一首評での立場だ。

 しかしながら、連作となると、様相が違ってくる。

 連作になると、小説世界のように、どうしても<主人公>の人物への共感、とか、<ストーリー>の面白さみたいなものが求められてくる。

 そこで、本Blogでは、連作については、「エッセイ」の一編のようにして分析なり鑑賞なりするのがいいのではないか、ということを何度か提案している。連作を編んだものを歌集と呼ぶなら、さしずめ歌集はエッセイ集であり、連作はエッセイの一編だ、ということだ。

 このようにと連作をエッセイの一編ととらえるならば、本当のことを書こうかウソを書こうが、あまり問題ではなくなる。というか、エッセイの場合は、一応は、作者の体験したことや思ったことを書く、というのが建前なので、読者にウソくせえなあ、と思われるのは、エッセイストの筆力不足ということになるだろう。エッセイは、やはり見てきたようなウソじゃないとマズいだろうとは思う。

 そして、エッセイの場合は、作者の属性というのも必要だ。というか、エッセイは基本的に、内容もさることながら、誰の作品か、というのが読者の読む動機になっているんじゃないかしら。だから、作者としては、自分の属性を小出しにしながら、ホントかあるいはホントっぽいウソを、面白おかしく書く、ということになる。前回のエッセイでは、母親に虐められていた話だったのが、今回のエッセイで母親は生まれたときに死んでいたとか、そんな明らかにツジツマが合わないのはまずいだろうから、一応、ウソがばれないように書くだろう。

 じゃあ、短歌の連作はどうか。

 というと、短歌の連作も、これまで述べたエッセイと同様に、ホントかホントっぽいウソを、作者の属性に矛盾のない範囲で詠んだ方がいいだろう、というのが筆者の主張だ。

 では、今回の受賞作をどう評価するか。

 というと、今回の場合は、エッセイどころの話ではない。完全にルポルタージュを気取っている。これは、言葉は悪いが、新人賞の匿名性を利用した所業である。

 もし、作者の属性が明らかな状態でのコンクールなら、今回の連作は評価されなかっただろう。というか、そもそも、こういう連作の応募はしないだろう。

 つまり、匿名でのコンクールであるがゆえの受賞であった、といえるのだ。

 ちなみに、筆者は、短歌連作と匿名の関係というのは、かように相性が良くない、ということを過去にも主張している。

 つまり、一首評は作者の属性は必要ないが、連作になると作者の属性は必須だ、ということだ。一見、矛盾しているように思われるかもしれないが、その理由は、ここまで述べた通りで、まったく矛盾はしていない。

 とにかく、短歌の新人賞では、もう匿名はやめた方がいいですよ、と、ここでも繰り返し主張しておきたい。

 

 あと、別の論点としては…。

 どうして、この作者は、こうした連作を作ったのだろう、という歌作動機が、筆者にはどうにも引っ掛かる。

 たとえば、短歌連作としてではなく、こうした作品を小説世界として書くことは意味があることだろうか。

 というと、意味がないとはいえないが、やはり、主人公の葛藤から成長へ軌跡やら、ストーリー展開の面白さやらで読ませないと、ルポルタージュやドキュメント作品よりも、虚構世界の方が素晴らしい、ということにはならないだろう。つまり、そうした面白さがないのなら、ホントのことの方が読む価値はある、ということだ。これは、当たり前のことだと思う。

 じゃあ、短歌の世界で、こうした虚構世界を展開する意味はあるだろうか。

 と、いうと、筆者はその意味を見出せないでいる、というのが現時点での見解だ。

 つまり、こうした連作を作る意味が分からない。

 歌作の動機が理解できない。

 「受賞のことば」にあるように、とある映画を観て、50首の虚構連作を作ろうと思ったというのも筆者には理解しがたいし、シリア内戦での無辜の人の死というものを、虚構で詠もうと思うのも歌人のモラルとしてどうなのかとも思う。…と、ついさっきまで、歌の内容はどうでもいいと言っておきながら、ここで筆者が歌の内容についてモラルを説くのは完全に矛盾しているのだけど、感想としてはそう思う。

 と、とりあえず、今回はここまで。