わからない歌⑫

 前回からの続きである。

  三月のつめたい光 つめたいね 牛乳パックにストローをさす 

                         宇都宮敦『ピクニック』

 この作品には、三句目にいきなり「つめたいね」と読者に同意を求めるような句が挟みこまれている。読者にとっては、「三月の光って、つめたいよね」と、柔らかに同意を求められているので、「ええ、まあ、そうだね」と相槌を打つ感じで、主体の呼びかけに何となく同意をするということになる。

 この何ということもない同意というのは、作品から〈共感〉を無意識的に強いられている、と言ってもいいだろう。これは、なかなか高度な技法といえないか。

 これが「八月の光って冷たいよね」、と言われると。「え?」となるし、二月だと「当たり前じゃん」となる。三月の光って、冷たいよね、と同意を求められるから、「ああ、そういえば、三月はまだ光は冷たいよなあ、そうだなあ」と〈共感〉してしまうのだ。そうして後は、読者が三月の冷たい光というものを各々イメージして、そのイメージと下句の主体の行為との取り合わせを鑑賞する、ということになるのである。

 作品に隠されている、さりげなく強要された〈共感〉。このさりげない強要が心地よいと思えば、良い歌だなあ、と思うし、気持ち悪いと思えば、良い歌じゃない、と思う、ということなのだろう。

 同様な構成としては、この作品。

  理科室のつくえはたしかに黒かった そうだよ ふかく日がさしこんだ

 下句の「そうだよ」という挿入が、読者への〈共感〉をさりげなく強要していよう。「理科室の机って黒かったよね、そうだよね」という〈共感〉の強要である。では、なぜ、理科室の机が黒いことの〈共感〉が作品に必要なのか。というと、「理科室」「黒い机」というアイテムが、学生時代の淡い青春の記憶を象徴しているからだ。ああ、あの頃の青春、たしかに、理科室の机は黒かったな、と、学生時代の淡い記憶を呼び起こして〈抒情〉するために、〈共感〉が必要なのだ。

 しかし、問題は、「理科室」「黒い机」で、〈抒情〉できない人たちも一定数いることだ。そういう人たちにとっては、この歌の良さは「わからない」まま、ということになる。であるから、こうした現代口語短歌は、世代を選ぶということがいえるかもしれない。

  牛乳が逆からあいていて笑う ふつうの女のコをふつうに好きだ

  君のかばんはいつでも無意味にちいさすぎ たまにでかすぎ どきどきさせる

 これらの歌もまた、「牛乳が逆からあいて」いることがおかしいと〈共感〉できる世代、好きな子のカバンに注目するということに〈共感〉できる世代でないと、この歌の良さが「わからない」ということになるのだ。

 以上、ここで強引に「わからない歌」を「わかる歌」になるための「まとめ」をするなら、作品に〈共感〉できれば〈抒情〉できるし、作品に〈共感〉できなければ、作品そのものが「わからない」といえるのではないか。

 そして、現代口語短歌の〈共感〉とは、宇都宮の作品に顕著なように、世代として、〈共感〉できるアイテムは限られていよう。すなわち、世代間格差がもともと作品に内包されているのではないか、というのが、ここ三年間の連載のまとめだ。

(「かぎろひ」2021年5月号 所収)