わからない歌⑪

 この「わからない」歌の連載も、三年目が終わろうとしている。はじめたときから、あまり先のことも考えず、その時その時で気が付いた話題を取り上げてきたせいもあり、だんだん収拾がつかなくなってきた。連載自体が漂流しはじめて、どこに着地するのか分からなくなってきたので、そろそろ、ここで一旦まとめたいと思う。

 連載当初の目的は、「わからない」歌を「わかる」ようにしよう、そして、できれば「いい歌」だと思ってもらえるようにしよう、というものだった。そして、その「いい歌」と思えるためのキーワードとして、〈抒情〉なるものを提出して論じていた。そこで、はじめの論点に戻って、再び〈抒情〉をキーワードに、現代口語短歌の「わからない」歌が「わかる」よう論じていこう。

 取り上げるのは、宇都宮敦『ピクニック』から四首。

 

三月のつめたい光 つめたいね 牛乳パックにストローをさす

理科室のつくえはたしかに黒かった そうだよ ふかく日がさしこんだ

牛乳が逆からあいていて笑う ふつうの女のコをふつうに好きだ

君のかばんはいつでも無意味にちいさすぎ たまにでかすぎ どきどきさせる

 

 これらの宇都宮の作品、「わからない」歌の筆頭格ではないかと思う。書いてある内容は実に平易でとてもわかりやすい。字数についても、字余り気味ではあるがほぼ定型で、実に短歌らしい。けど、この歌の良さが、さっぱり「わからない」というのが、初読の印象ではないか。

 一首目。三月のつめたい光と牛乳パックにストローを刺したという行為の取り合わせ。これ、うまく構成すれば、ちゃんと抒情的で「わかる」歌になるはずである。上句で、三月の光の冷たさを、レトリックを駆使して短歌的に詠えば、下句の日常の実にありきたりな行為が、何かかけがえのないものの象徴として浮かび上がり、良い作品になりそうな感じがする。

 しかし、この作品は、そんな従来の「わかる」歌として構成はされていない。そう考えると、この歌の「わからない」原因は、上句にあるといっていい。「三月のつめたい光 つめたいね」の部分だ。ここの部分の良さを、どうやって説明したらいいだろう。もし、近代短歌の批評であれば、こういう表現は否定的に論じられるところであろう。すなわち、「三月のつめたい光」なんて、あまりに凡庸で抽象的な表現だ。光のつめたさを、きちんと写実的に具象をもって詠うべきだ、と、いう感じであろう。

 しかし、作者の宇都宮は、そんな近代短歌の作歌の流儀は承知したうえで、このような歌を提出している、と筆者は考える。つまり、宇都宮は「三月のつめたい光 つめたいね」で、読者を〈抒情〉させることができると踏んでいるのではないか。

 読者に〈抒情〉してもらうには、「ああ、三月のつめたい光かあ」としみじみ思ってもらわないといけない。しかし、読者が、「三月のつめたい光」だけで〈抒情〉するのはさすがに無理だ。そこで、作者は、三句目に工夫を施した。それが〈つめたいね〉だ。歌の途中にいきなり主体が現れて、読者に同意を求めているのだ。ここがこの作品の〈抒情〉の仕掛けともいえる部分である。(次回に続く)

(「かぎろひ」2021年3月号所収)