短歌時評2022.11

 角川「短歌」八月号の座談会「流行る歌、残る歌」を読む。内容は、というと、大辻隆弘、俵万智斉藤斎藤、北山あさひの四氏に、今後残るであろう作品をあげてもらい、それぞれ残る理由を述べていく、というもの。

 例えば、俵万智なら、「残る歌」の条件として、「歌そのものの力で、すでに多くの読者を獲得している」「時代の刻印がある」「ツイッターで見た人がいいな思って広がっていく」の3つを挙げて、そうした条件にかなう作品として、十首選んでいる。

 

  告白は二択を迫ることじゃなく我は一択だと告げること

                       関根裕治

 俵万智によると、この作品は、ツイッターでたくさんの「いいね」がついて、拡散していったという。こういう歌が俵の言う「残る歌」というわけだ。

 北山あさひならば、「その人にしか詠めないものが詠まれている歌」を「残る歌」の条件として挙げて、大森静佳の次の作品をあげている。

 

  産めば歌も変わるよと言いしひとびとをわれはゆるさず陶器のごとく

 座談会では、こうして、それぞれの考える「残る歌の条件」と「残る歌」十首をあげて、縦横に議論が展開していくのであった。

 さて、この座談会のテーマである「残る歌の条件」。これ、要するに「いい歌」の基準であることがわかるだろうか。

 つまり、俵万智であれば、俵が考えている「いい歌」というのは、歌そのものの力ですでに多くの読者を獲得していたり、時代の刻印があったり、ツイッターで見た人がいいなと思って広がっていったり、ということになる。北山あさひならば、その人にしか詠めないものが詠まれている歌が、北山の考える「いい歌」といって差し支えないだろう。

 なんなら、皆さんも「残る歌」を自分なりに考えて、選んでみたらよい。その選んだ歌というのは、間違いなく、自分が「いい」と思う歌なのだ。だって、「いい歌」だと思わないものを、残そうなんて思うわけがないのだから。

 さて、そうやって選んだ「いい歌」。これ、各人で選ぶ基準があったはずである。そして、俵だったり北山だったりとは違う基準で、違う歌を選んだはずだ。

 と、ここまで話を進めたところで、要するに短歌の世界というのは、「いい歌」の基準を自由に決めることができる、というのがわかるだろうか。つまり、短歌の世界には「いい歌」の絶対的な基準は存在しないのである。

 「いい歌」の絶対的な基準が存在しないということ。

 実は、これ、ものすごく「いい」ことだ。なぜなら、自分で基準をつくれるということなのだから。つまり、いい歌かそうでないかは他人が決めるものではない。自分で決めるものなのだ。自分で作った「いい歌」の基準で他人の歌を読んで、自分で作った「いい歌」の基準で自分の歌を詠めばいい。

 なんて素敵な文芸ジャンルなのだろうと、思わずにいわれない。

 自分の作品が、いいかどうかは、自分で決めることができるのだ。もちろん、他者の作品の評価についてもそうだ。自分が「いい」歌だと思えば、それでいいのだ。そして、その「いい」理由を存分に語ればいい、というのが短歌の世界なのである。

(「かぎろひ」2022年11月号所収)