短歌は芸事である

 短歌は「芸事」である、の話の続きである。
 そもそも「芸事」と「芸術」はどう違うか。
 たとえば、美術というジャンルについて。
 私は美術には明るくないが、美術大学というのがあるんだから、美術には普遍的な理論があるんだろう。つまり、その道の研究者であれば誰もが等しく理解し、人に順序だてて説明できるような理論である。今風にいえば、コンテンツとして成立しているのが、美術のような芸術分野なんだろう。だから、ごく基本的なデッサンとかは、コンテンツとして、だれが教えても同じものなんだろうと思うし、一流講師と二流講師の違いは、教え方の上手さの違いであって、教えられる側が到達すべきデッサン力といったようなものは同じなんだろう。
 西洋音楽芸術もそうだろう。技能的なものであれば、演奏だろうが作曲だろうが、メソッドが理論として確立されているから、それを逸脱して音楽表現することは不可能であろう。こちらも、より高度なレッスンを求めて海外へ音楽留学したりするけど、基本的なレベルであれば、どこで学んでも同じということがいえよう。
 そういうわけで、「芸術」というのは、きちんと理論化できるから、高等教育機関で専門的な学修ができるのである。もし、霊験あらたかなる者だけが真の芸術に到達できる、ということならば、この世に芸術学校が存在しようがない。
これが「芸術」の基本的なとらえになる。
 一方で、「芸事」はどうだろう。
 例えば、「お花」なんていうのがあるが、私はもちろん明るくはないが、あれは、それぞれに「流派」というのがあろう。そして、それぞれの「流派」には、「お師匠さん」がいて、その「お師匠さん」の手ほどきで習うのであろう。もちろん「流派」が違えば、作法も違うし、形式も違うし、何をもって良いのかも、違ってくるだろう。だって、普遍的に良い、という基準があるのだったら、そもそも「流派」はいらない。誰もが、共通のやりかたで教えることができるし、誰もが同じように習うことができよう。
 こうしたことは、「お花」に限らず、「日本舞踊」や「茶道」や「書道」あたりにも共通すると思われる。
 これらの「芸事」と「短歌」というのは実に似通っている、というのが私の主張である。
 すなわち、「短歌」もお師匠さんがいて、その流派にしたがって歌を詠むということである。その、お師匠さんのもとに集まることで「結社」ができて、選歌や添削によって、お師匠さんに歌を教えてもらうのである。そして、何度も繰り返すが、短歌の良い悪いの基準はこの世に存在しないのだから、お師匠さんが良い、といった歌が秀歌となるのである。
 10人いれば10通りの歌の基準があるというのも前回言った通りで、人によって「いい歌」でも、別の人なら「たいしたことない」、ということになるのだ。
 これは、美術や音楽といった芸術分野ではありえないことと思う。
 けど、芸事なら普通にあり得るだろうと思う。
 時々、若い歌人に「歌人」と「お笑い芸人」を比較して論評する文章が見受けられるが、これは、比較対象として正しく、面白い議論ができると思う。少なくとも、「短歌」を「文学」や「芸術」だととらえて論評している文章よりは実りのある内容になると思う。
 そういうわけで、短歌というのは、「文学」はおろか「芸術」活動でもない、「芸事」である、というのが私の主張である。

 なお、歌人の中には、「結社」に入らないで、一人で作歌活動をしている歌人がいる。こうした歌人は、これまで議論してきた歌人とは、同じ歌人でも違う。こうした歌人の作品も「芸事」なのか。
 …と、考えると、結社に入っていない歌人の作品というのは、これは、「文学」といえるでしょうな。
 けど、そうした無結社の人間が作る短歌を「文学」とするなら、私は、そういう作品は、「短歌」とは別の短詩型文芸とでも規定したいと思っている。
 少し、話にまとまりがなくなってきたので、こうした無結社の歌人について、話を整理して次回に議論してみることにしたい。