結社とは何か?

 短歌の世界には「結社」というのがある。
「短歌結社」とは、何だろうか。「短歌同人」「短歌同好会」「短歌サークル」とは違うのであろうか。
 答えを先に言うと、そうしたものと「短歌結社」は決定的に違う。
 違うからこそ、「結社」という名称で、「あさ香社」や「竹柏会」の時代から、120年以上たった現在まで「短歌結社」は存在し続けているのである。
 とりあえず、「短歌結社」の一般的な概念をみてみよう。
 三省堂の『現代短歌辞典』から「結社」の項を引用する。執筆は、来嶋靖生

 

 特定の目的や関心にもとづいて結合した集団で、目的実現のための組織を持ち、所定の活動をする。短歌の場合はある指導的歌人を中心に、志を同じくするものが集まり、機関誌を発行し、歌会をおこなうのが基本的活動とされるが、時代とともに変容もみえる。

 

 辞典だけあって、過不足なく模範的な記述である。
 来嶋の言う、「特定の目的や関心」というのは、短歌のジャンルのなかでも、とある流派というとらえでよいであろう。そこに、「指導的歌人」がいて、その歌人の流派というか、歌風というか、それに賛同するのが集まって、「機関誌」の発行や「歌会」をするというのが「結社」の「基本的活動」といえよう。
 しかしながら、これでは、「短歌サークル」や「同好会」との区別がいまひとつつきにくいかもしれない。とくに、結社の「機関誌」である、「結社誌」と、短歌愛好者が集まって発行する「同人誌」の違いは、明確ではなかろう。
 そうなると、「短歌結社」とそのほかの「短歌愛好会」との違いをきちんと明示したほうがいいだろう。
 「短歌結社」と「短歌愛好会」の違いとは何だろう。
 それは「選歌」と「添削」の有無だ。
 この2つがあるのが「結社」で、ないのが「愛好会」だ。
 どうだろう。実に、わかりやすいでしょう。
 ひと昔前までは、これに来嶋の言う「歌会」が加わっていたが、今は、超結社の歌会や誰もが参加できるネット歌会がおこなれているので、「歌会」を結社の条件からは外すことにしたい。
 大体、「結社」に属している歌人でさえ、何か「結社」というのは、歌人同士の相互扶助組織みたいなものと思っているきらいがあるが、それは大きな間違いである。「結社」には、「結社」の目的があり、それが目に見える形であらわれているのが「選歌」と「添削」なのだ。
 「選歌」と「添削」の2つが、「結社」とそれ以外を隔てるものだ。すべての「結社」にはこの2つが必ずある。別の言い方をすれば、「選歌」と「添削」がなければ、それは、「結社」とはいえないのだ。
 まずは、「選歌」。
 なぜ、結社誌には「選歌」があるのか。
 結社誌に「選歌」があるのは紙幅の関係なのかな、と、思う人もいるかもしれないが、だったら、はじめから1人5首までとか、規定すればいいだけである。そうではなく、例えば10首投稿しても、選歌されて8首に絞られるのはなぜか。
 それは、出来の良い歌を載せて、出来の悪い歌は載せないからである。しかし、この出来のよい、というのが、歌の世界では実に曲者で、何をもって出来がよいか、という客観的説明は絶対にできない。つまり、歌人によって出来の良さの基準が違うのである。たとえばここに歌が10首あって、出来の良い順番に並べろ、といわれたら、100人の歌人がいれば100通りの順番になるのだ(と、いうのは、言い過ぎか。けど、10人の歌人がいれば10通りの順番にはなると思うよ)。
 とにかく、何をもって出来が良いとするか、という基準がないのだから、もはや好き嫌いのレベルといってもいい程度なのである。
 けど、それでも良い悪いの判断をつけるとするなら、どうするか。というと、その結社で、いちばん短歌がうまいと認められる人に選んでもらうのが妥当なところだろう。これが選歌なのである。そのいちばん短歌がうまいと認められる人、というのが、結社の主宰者、ということになり、その主宰者のオメガネにかなった歌がめでたくその結社誌に載る、ということになるのである。そして、繰り返しになるが、そのオメガネは人によって違うから、ある結社では褒められても、別の結社なら貶される、ということも普通にあるのだ。
 であるから、選歌というのは、この結社では、こういう歌が、出来のよい歌なのである、という基準を示す、というとても重要なものであり、選歌がないと、出来の良さの基準が無くなってしまうので、結社の体をなさない、というわけだ。
 「添削」も同様である。
 「添削」というのは、出来の悪い歌を出来の良い歌に直すことをいう。しかし、繰り返しになるが、出来の良い基準というのは、この世に存在しないので、どこをどう直したら出来の良い歌になるか、なんていう説明は絶対にできない。であるから、ここに出来の悪い歌があるとして、10人の歌人が添削すれば、10通りの添削後の歌が存在することになり、それは、どれも違ったもの、ということになる。すなわち、歌人によって何を出来が良いとするか、というのは、それだけ違うものなのだ。
 しかし、そんな「みんな違ってみんないい」といった状態だと、収拾がつかなくなるので、やはり、権威のある歌人の「添削」が素晴らしい、ということにして、その権威は「結社」の主宰といったところに落ち着かせるといいだろう、ということになっている。「選歌」よりも「添削」のほうが、結社の歌風というか、流派が色濃くでてくるであろう。

 と、いうわけで、「選歌」と「添削」の有無が「結社」とそのほかの「愛好会」とか「サークル」とか「同人」といった団体の違い、ということになる。
 で、こうした「結社」が令和の現在でも短歌の世界ではごく普通に存在しており、毎月、何十という「結社誌」が日本全国で発行されているのである。

 さて、こうした短歌の活動、すなわち「選歌」とか「添削」なんていうシステムがあるジャンル、これを果たして「文学」と呼べるのだろうか。
 私は、とてもじゃないけど、そんな権威性におもねった組織に属している者の創作物を「文学」と呼ぼうとは思わない。そんなもの「文学」から程遠い、と思う。
 
 では、短歌は「文学」でないなら、どうジャンル分けをしたらいいか。
 私は、「文芸」というのがいちばんしっくりするだろうと思う。

 短歌は「文芸」である。と、主張しよう。
 「文芸」の「芸」というのは、「芸術」ではない。私としては、「芸事」の「芸」。つまり、短歌は私に言わせればあれは、「文学」なんかじゃなくて、「芸事」だよ、ということだ。
 私が短歌を「芸事」である、という理由について、次回、また、エンエンと述べていくことにしたい。