短歌の「リアル」①

 前回までは、連作やら歌集やらの話題を取り上げたが、やはり短歌は、一首をこってりと弄繰り回すほうが面白い。

 そいうわけで、今回からは、短歌の「リアリティ」について、しばらくお喋りしていきたい。

 なぜ短歌には「リアリティ」が必要なのか。

 この問いの答えがゴールである。
 今年のお盆くらいまでには、答えがでるだろうか。

 まずは、そもそも「リアル」とは何だろう。
「リアル」とは一般的には「本当」という意味あいで使っていると思う。じゃあ、短歌で、「本当」のことを詠めばすべて「リアリティ」のある歌になるかといえば、そんなことにはならない。
 詠み人が「本当」のことを作品にしても、読者からすると、「リアリティ」がないなあ、と感じることはよくある。もちろん、逆もあって、詠み人が「ウソ」を詠んでも、やたらとリアルな「ウソ」ということもある。この場合は、果たして「リアル」なのか「ウソ」なのか、どうなんだろう。
 それはともかく、せっかく「本当」のことを詠んでも、本当らしく読まれないのは詠み人にとっては困る事態である。
 どうやら、「リアル」には、何らかの「リアル」たらしめる構造があるようである。
 
「リアリティ」について、これまでかなりの考察を深めている歌人穂村弘がいる。
氏の著書『短歌の友人』には、そのものずばり「<リアル>の構造」と題された一章がある。
 そのなかで、こんな問題を出しながら、リアリティについて議論している論考がある。
(「<リアル>であるために」『短歌の友人』河出書房新社

 

 □□□□□□□おかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏

 

 ここの空欄を埋めよ、という問題だ。さあ、ベンチには何が置かれていたのだろう。
 穂村は、いくつかの回答例を出す。

 図書館の本おかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏
 コカコーラの缶おかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏
 君よりの手紙(ふみ)おかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏

 

 この3つを提示したのち、原作(正解?)を示す。
 原作は、これだ。

 うめぼしのたねおかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏
                                 村木道彦

 

「図書館の本」「コカコーラの缶」「君よりの手紙」ではなく、「うめぼしのたね」であった。
 穂村は言う。

 

「図書館の本」とか「コカコーラの缶」とか「君よりの手紙」とか、ベンチに置かれ得るモノは無数にある。だが、ここで選ばれたものは、よりによって「うめぼしのたね」なのである。(中略)「うめぼしのたね」とは一見奇妙だが、実際にはこれもまた「ベンチ」の上に置かれる可能性の充分にあるものだ。こう書かれたとたんに、いつかどこかでそんな光景を見たような気になるではないか。
(穂村前掲)

 そう述べた後、先ほどの「コカコーラの缶」と「うめぼしのたね」の歌を比較する。
 穂村は言う。

 

 両者を比較したとき感じられるのは、リアリティの深さの違いである。「コカコーラの缶」の方は、一首の情景がドラマの中のセットのように平面的な印象になっている。それは、なんというか、何度でも繰り返し可能な世界なのである。
 それに対して、「うめぼしのたね」の場合は、一首の中で「しずかなる夏」が、ただ一度きりの<リアル>な季節として息づいている。ゴミであると同時に生命の源でもあるこの「たね」によって、我々が現に呼吸しているこの世界の感触が、生々しく再現されている。
(穂村前掲)

 なんと、「コカコーラの缶」と「うめぼしのたね」では、<リアリティの深さ>が違うというのである。
 もし、主体が見た水色のベンチに、本当に「コカコーラの缶」が置かれていて、「うめぼしのたね」が置かれていなかったとしても、この歌の場合は、後者の方に「リアリティ」があるというのだ。
 そんなことって許されるのか。
 その理由を、コカコーラの缶は平面的で繰り返し可能とし、うめぼしのたねはただ一度きりで世界の感触が再現されている、と穂村は述べる。
 さすがに、この理由は苦しい。うまく言えていない。というか、何も言っていないに等しい。
 けれど、私も穂村と同様に、「図書館の本」や「コカコーラの缶」や「君よりの手紙」よりも、「うめぼしのたね」の方が圧倒的にリアリティがあると感じる。おそらく、誰もがそう感じるはずである。コーラの缶がもし本当に置かれていても、それを短歌にしたら、リアルに感じないのである。
 なんて短歌は罪深いものなのだろうと思う。
 しかし、それが短歌の「リアル」なのだ。
 では、その「リアル」とは何なのだろう。穂村は、苦しいながらも「ただ一度きり」というワードを出して説明をしている。
 どうやら、このワード「ただ一度きり」が短歌の「リアリティ」の構造を解く手がかりのようである。とにかく、この手がかりを頼りに、来週まで、短歌の「リアリティ」というのはいったい何なのかを考えてみることにしよう。
 (次週に続く)