短歌の「リアル」④

 前回の終わりに引用した、穂村の一文の解読からはじめよう。
 この文章だ。

 これらを写実的リアリズムの影響下に、その一部をツール的に技法化した表現とみることもできそうだ。
穂村弘『短歌の友人』河出書房新社

 ひとつひとつみていこう。
 まずは、「写実」。短歌の世界では、「写実」という語に、いくつかの概念が張り付いている。すなわち、短歌の世界の「写実」とは、英語のリアリズムの意味だけでは使われているわけではないということだ。
 それが証拠に、穂村は「写実的リアリズム」といった、よくよく読むとおかしな言い方をしているではないか。
 では、短歌の世界の「写実」とはどんな概念だろうか。
 『現代短歌大辞典』より「写実」を引く。執筆者は大島史洋。

 英語のリアリズム、フランス語のレアリスムの訳語として明治時代頃から使われ始めた言葉。主観による美化や修正をおこなうことなく、現実をありのままに描写する主義、方法をいう。(中略)短歌の世界では「写生」と混同して用いられることが多い。正岡子規は、…「写生」を絵画の場合、「写実」を文章の場合と使い分けているが、一方、「写生文」といわれる文章革新運動を弟子たちとすすめており、明確な区別があったわけではない。後、子規の系譜を継ぐ「アララギ」の歌人たちは多く「写生」の語を用いて指導理論とした。(後略)
(『現代短歌大辞典』三省堂

 短歌の世界の「写実」と言えば、正岡子規からはじまるアララギ系の歌作主義あるいは方法、といった連想が容易につく。いちいち言わなくても、「写実」といえば、そうした概念理解を期待していよう。
 では、その子規から現在まで連なる「写実」というのは、どういう主義、方法なのかというと、「主観による美化や修正をおこなうことなく、現実をありのままに描写する主義、方法」ということ。これが短歌の世界での<写実>だ。
 で、主張するは簡単だけど、実際にどう詠むか。と、いえば、それこそ、子規の時代から現在まで、ありとあらゆる<写実的リアリズム>の作品が生み出されてきていよう。そうした、短歌の世界で影響を与えてきた<写実的リアリズム>の歌の作り方の、一部をツールとして技法化した、と穂村は言う。
 つまり、そうした写実の歌の作り方として、こういうやり方がありますよ、と、吉川や東の作品を実例としてあげたのである。
  穂村は、<リアルの構造>として、「具体的」と「小さな違和感」をあげたわけであるが、こうした表現描写というのは、何のことはない、これまでのアララギ系の<写実的リアリズム>の歌作の技法として、ツール化されたものだ、といいたいのだ。
 遠回しながら、穂村はこの一文で、吉川と東を挑発しているとも読める。

 それはともかく、では、アララギ系の写実的な作品で、<構造>は抽出できるだろうか。
 これまでこのBlogでは、斎藤茂吉をいくつか取り上げてきたが、例えば、このような作品から<リアルの構造>が抽出できよう。

 

ダアリヤは黒し笑ひて去りゆける狂人は終にかへり見ずけり
監獄に通ひ来しより幾日経し蜩啼きたり二つ啼きたり
あま霧し雪ふる見れば飯をくふ囚人のこころわれに湧きたり

 

 一首目。<終にかへり見ずけり>に、「具体的」で「小さな違和感」を読むことができよう。ただ走って去ったのではなく、返り見ることなく去っていったと「具体的」に詠うことで、読者は、確かに狂人が笑って去っていったに違いない、といったリアリティを感じることができるだろう。
 二首目。こちらも結句、<二つ啼きたり>という「具体的」な「違和感」を、とってつけたように詠うことで、ズシンとしたリアリティがうまれよう。
 三首目。こちらは<飯をくふ囚人のこころ>だ。ただの囚人のこころではなく、<飯をくふ>と「具体的」に詠うことで、リアリティが生まれる仕組みとなっている。これが「罪の意識にさいなまれている囚人のこころ」とか「家族を思う囚人のこころ」だったら、平凡になる。飯を食っているこころという、オヤ?と思う「小さな違和感」がリアリティを担保しているのだろう。

 以上、私たちが一読して、リアリティが感じられる、という作品のなかには、こうした「具体的」で「小さな違和感」が詠われている場合が多々あるのだろう。