短歌の「リアル」②

 前回の続きである。
 リアルの構造を解く手がかりとして、「ただ一度きり」というワードを提出したのだった。
 これを頭の隅に入れながら、さらに、穂村の別の論考を見てみよう。
穂村弘「『ダ』と『ガ』の間」『短歌の友人』河出書房新社
 この論考では、この作品を提示して、論を展開する。

 

 謝りに行った私を責めるよにダシャンと閉まる団地の
                           小椋庵月

 

 とりあえず、この歌が秀歌かどうかはおいておいて、この歌を、次のように替えてみよう。

 謝りに行った私を責めるよにガシャンと閉まる団地の
                               改作

 「ダ」を「ガ」に替えてみた。
 さあ、この一字の違いで歌は違ってくるか。
 穂村によると、これは、大違いになるのだという。この「ダ」に<一首の命が凝縮されている>とまで言う。
 穂村は言う。

 

 「ダ」を「ガ」に替えただけで一首は死んでしまう。(中略)
 では、「ダシャンと閉まる」だと何が違うのか。「ダシャン」という響きの奥に、私は次のようなことを感じる。ある日、ある時、なんらかの理由によって、作中の<私>は本当に謝りに行ったんだな、そして、扉が閉まって心が震えたんだなあ、と。その理由は「ガシャン」の慣用性に対して、「ダシャン」というオノマトペには一回性の新鮮さがあるからだ。
 (中略)
 では、「ダシャン」にみられるような表現の新鮮さが、リアリティに結びつくのは何故か。その価値の本質とはなんなのだろう。おそらく、それは我々自身の生命の一回性に対応していると思われる。

(穂村前掲書)

 さあ、またキーワードが出てきた。「生命の一回性」だ。けど、これは、先に出した、「ただ一度きり」と似たようなワードだ。
 つまり、「ガシャン」より「ダシャン」の方が、より、ただ一度きりのかけがえのなさといったようなものをより深く捉えている、というのだ。
 たしかに、「ガシャン」は慣用表現というか、よくある平凡なオノマトペであり、新鮮さはない。一方で、「ダシャン」は、オリジナリティあふれる斬新なオノマトペである。慣用表現は、繰り返し使用されているので、「生命の一回性」とか「ただ一度きり」といったものとは対極といえよう。一方、オリジナリティあふれる斬新な表現は、かけがえのない今、といったようなものを表現するのには、ふさわしいとはいえるだろう。
 そういうわけで、この穂村の論考は、わりと納得しやすいと思う。
 この対比は、前回みた、「コカコーラの缶」と「うめぼしのたね」にもあてはまるだろう。「コカコーラの缶」は平凡で、「うめぼしのたね」は斬新、ということになる。
 であるから、新鮮な表現は、「生命の一回性」と親和性は強いだろうとは思う。
 じゃあ、詩歌は新鮮で斬新であればいいのか、というと、それはそうなんだけれども、そうした表現をするのは容易なことではないと、穂村は言う。

 

 詩歌を創作する側にまわったとき、「ダシャン」という表現の発見が決して容易ではないのは、我々の無意識が自らの生の一回性を隠蔽しようとしているからだと思われる。そのような反応は単なる無知や怖れから生まれるわけではなく、或る種の合理性に基づいている。すなわち、生のかけがえのなさに根ざした表現が詩的な価値を生むとしても、それが生の全体性にとっても常に最善とは限らないのだ。むしろ、日常的な生活や社会的な生活の現場においては不利に働くことが多い。例えば、新聞記事やビジネス文書に新鮮なオノマトペやメタファーが充ちていてはまずいだろう。そのような場では、扉は常に「ガシャンと閉まる」ことが望ましいわけだ。

(穂村「前掲書」)

 さあ、ここの穂村の論考はどうだろう。
 ぐんと話を広げているけど、要は、詩歌の言葉と日常の言葉は違うと言っていて、それは、私たちが合理的に生活している以上、私たちの無意識が詩歌のことばである「生の一回性」に満ちた表現を隠蔽しようとしているからだ、ということだ。
 ここについては、私は、首肯しかねる。
 リアリティを担保するような、新鮮で斬新な表現の発見というのは、穂村の言う無意識というよりは、別の意識、言うなれば詩歌への「美意識」のようなものだろうと私は思う。「ダシャン」という表現が、詩歌の美意識としてかんがみるときに、果たして詩歌の美的表現としてふさわしいのかどうか、というのを常に試されているのだと思う。

 それはともかく、「リアル」の構造については、これで、少しみえてきた。
 「リアル」とは何か、との答えとしては、斬新で新鮮な表現やフレーズといったものが詠われていると、読者はその歌にリアリティを感じる、ということだ。そして、その理由としては、「生の一回性」とか「ただ一度きり」といったものを感じるため、ということだ。
 では、次回以降、さらに掘り下げていくことにしよう。