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栗木京子『水仙の章』(砂子屋書房)を読む

 短歌は「機会詩」としての側面を持つ。

 他の文芸と比べても、短歌は社会事象にコミットしやすい詩形であろうし、私たちが社会事象から受けた心象を、詩へと昇華することについても、比較的容易にこなせる詩形といえよう。

 角川「短歌」は、東日本大震災から二年たった二〇一三年三月号で「いま、歌人が思うこと」という小特集を組んでいる。総合誌のこうした編集方針というのは、短歌の「機会詩」としての側面を鑑みているものといえよう。

 この小特集で、私は永田和宏の論考に特に注目した。

 永田は論考の冒頭で「私はこれまで繰りかえし、機会詠の大切さを言ってきた」と述べたのち、後段で次のようにいう。

「しかし、歌において見たいものは、そして読みたいものは、あらかじめそこにある結論ではなかったはずだ。たとえ結論は同じでも、結論へいたるまでの精神の軌跡、その揺れの幅にこそ、詩としての歌の存在する意味があろう」

 なるほど、永田は「揺れの幅」にこそ、詩としての歌の存在する意味があるというのである。この「揺れ」の対極とするのが「価値観の表明」の歌という。永田は「単一の価値観でものごとを判断し、結論を強要する感性のあり方」を「もっとも嫌悪する」と主張する。そして、その理由を次のようにいう。

「個人は本来、自己の意見を決定する局面においてかぎりなく臆病なものだと思う。常に非決定性の揺れ幅のうちを揺れ続けているのが、個人のまっとうな意思決定のあり方の実態でもあると私には思われる」

 ここでも、永田はやはり「揺れ」という表現で、人の意思決定のあり方の実態についての私見を述べている。

 私は、この永田の主張を首肯する。

 永田がいう「揺れ」をどのように詩として昇華させているかが、「機会詩」としての短歌の評価となろうし、私たちがその歌について議論をする際の要諦でもあろう。

 栗木京子『水仙の章』(砂子屋書房)を読む。この栗木の第八歌集を機会詠の作品集というつもりはない。ただ、震災を強く意識して歌が編まれていることは、「水仙」を被災の象徴としてタイトルに採っていることからも推察できる。

 歌集には、震災に対する心象がいくつも詠まれている。

 被災せし人をおもへば……などと言ひつつ照明落とすも他者の驕りか

 皿汚しながらひとりの昼餉終へ誰にともなく手を合はせたり

 カップ麺の蓋押さへつつ思ひをりわが部屋に火と水のあること

 震災からさほど経っていない、まだ余震の続いている、列島も私たちも落ち着かなかった時期に詠まれた歌である。

「……」は、まさしく心の「揺れ」をそのままにして投げ出してしまったかのようだ。「などと言ひつつ」という乱暴な歌いぶりも、被災をまぬがれた作者が、当事者ではない私は何を詠えばいいのか、詠うことすら「他者の驕り」ではないのか、とでもいうような心の「揺れ」をそのままにして、安易な修辞すら拒んでいるかのようである。

 皿を汚すこともまるで罪悪とでも思ってしまう心象。皿に盛って昼餉できること、皿を汚してもすぐに水で洗い流せること、そんなことにさえ微かな罪深さを覚え、手を合わすということ。そこには、被災地から離れたところに住んでいる作者ができることは、「祈る」ことだけとでもいうような、もどかしい心の「揺れ」が読み取れる。

 カップ麺というジャンクな食品でさえ、火と水があってはじめて食べることができるという発見、しかしそんな小さな発見は、作者が被災している人々を日ごろ想っているからこそゆえであろう。

 これらの歌は、当事者ではない作者がただ被災した人々に対して「祈る」ことしかできない、切ない心情の「揺れ」をそのまま歌にした「機会詩」といえる。

 年が明けて、心象はどう変化したか

 香り付きの12ロールを使ひ切るまで恥ぢてをり昨年の買ひ溜め

 義援金を箱に入るればふと聞こゆ「手首のみにて球を放るな」

 ボランティアの人ら撤退したれども春はめぐり来さくらを連れて

 トイレットペーパーを買い溜めてしまったことを恥じる心象は潔い。「手首のみにて球を放るな」というのも、募金をすればそれで気持ちがおさまるのか、それは偽善に過ぎないのではないか、とでもいうような心の「揺れ」を詠っている。

 しかし、「ボランティアの人ら撤退したれども」はどうだろう。私は、作者がボランティアとして東北の地に向かったのかどうかは知らない。けれども、ここには、心の「揺れ」がみられなくなった。一年たってボランティアが撤退してしまったことについて批判的な目で見る。そんな作者の「価値観の表明」が鼻につきはじめる。

 震災の日より祈りはかたち持ち菱形の雲よ水仙の黄よ

 同時期に詠まれた歌である。

 皿を汚して手を合わせていた「祈り」と、この時期の「祈り」は変わってしまった。「祈り」に「菱形の雲よ水仙の黄よ」という詩的修辞がついてしまった。ここに作者の心の「揺れ」はなくなってしまったと私は読む。この歌は作品のタイトルにもある水仙を詠っているので、作者も思い入れがあろうし、これがこの歌集の代表歌となるのかもしれない。しかし、私はこの一首が秀歌とは思はない。震災直後の作者の心の「揺れ」をそのまま詠った数首に比べ、この歌は修辞が先にたち、私はよい鑑賞ができない。

 しかし、さらに時間がたち、わが国で原発について、脱原発原発容認か、といった意見の対立がはっきりする頃になると、再び作者の「機会詠」はいきてくる。歌にアイロニーが立ってくるのである。

 原発なき未来を語る人のをりグラスの氷ゆびでつつきて

 こうした歌いぶりは、アイロニーも効いていて、これは作者の心の「揺れ」を直截に詠ったものとはまた違う奥深さがある。

 では、この歌で作者は「価値観の表明」をしているか。なるほど作者は、グラスの氷をゆびでつついている脱原発派をアイロニカルにとらえている。であるなら、作者は脱原発派にまるごとコミットしているというわけではなかろう。では、作者は原発容認派なのか。というと、そうともいえない。この歌からでは、そうした表明は読みとれない。つまり、ここでも作者は「揺れ」ているのである。原発容認なのか、脱原発なのか、「価値観の表明」をすることは難しい。その心の「揺れ」がアイロニーとして修辞されている。こうした歌いぶりは巧いと思う。心の「揺れ」を詩へと昇華させている一首とみる。

 このような歌にこそ、私は「機会詩」としての短歌の強さをみるのである。

 

2013年「短歌人」11月号所収