「歌のある生活」18「音楽」の歌その5

 前回、小池光を悪く言いましたので、今回は、こんな素敵な作品を紹介しましょう。

 

 サミュエル・バーバー「弦楽のためのアダージォ」七分の間(ま)の虹きえるまで

                          小池光『時のめぐりに』

 

 アメリカの作曲家バーバーの代表作「弦楽のためのアダージォ」の切ない響きと、雨上がりの空にかかる虹の色彩が頭のなかでシンクロして、なんとも美しい作品となっています。

 けど、どうでしょう。やはり「弦楽のためのアダージォ」を知らない人にとっては、この作品の美しさを十全に感じることはできないのではないでしょうか。私は、この曲を知っていますので、頭の中で弦楽の響きと虹の輝きがシンクロします。なんて素敵な歌なんだろうと、深く鑑賞することができます。しかし、バーバーのこの曲を知らない人にとっては、そもそも頭のなかで鳴らすことはできないわけで、虹とのシンクロも起きることはないわけです。そのように考えると、この作品は読者を限定してしまうものとなります。つまり、バーバーのこの曲を知らなければ、この歌は味わいようがない、ということになってしまうのではないでしょうか。

 次の歌もそうです。

 

 厳寒にはく息おもうショスタコービッチ「パービ・ヤール」は夜すすりなく

                           小高賢『太郎坂』

 

 もう、バーバーの名曲どころではありません。ショスタコービッチ交響曲のなかでもとびきりマイナーな曲が題材となっています。この曲、コアなクラシックファンじゃないと、聴いたことがないでしょう。だいたい、曲のタイトルだって知らない人が大多数でしょう。

 ここまでマイナーな曲になると、もうショスタコービッチからの連想で、ソビエトの風土だから厳寒、とか、ソビエトの体制批判だから夜すすりなく、とか、音楽から離れて解釈するしかなくなるわけです。

なお、細かいことを言えば、「パービ・ヤール」は誤植です。ロシア語の発音からして「パ」と表記することはできません。カタカナ表記するなら「バ」が一般的です。すなわち「バービ・ヤール」です。

 今回は、音楽を題材にした二つの作品を取り上げましたが、実際のところ、短歌作品の題材になっている多くは、このような構成の作品といえます。すなわち、短歌作品に取り上げられた曲を知らないと、その作品の味わいが半減する、もしくは、味わうことができない、というものです。音楽が読者の頭の中で鳴らなければ、鑑賞のしようがない、というわけです。こうした作品群、私はやっぱり問題アリだなあ、と思います。

 しかし…。音楽を題材にしたすべての短歌作品で、その題材にした音楽が鳴っていなくてはいけないかというと、実はそんなこともないのです。音楽が鳴っていてもいいけど、鳴らなくても鑑賞ができる歌、というのもあるのです。

 つまり、今回取り上げた二つの作品のように「弦楽のためのアダージォ」や「バービ・ヤール」を知らないと味わえない、のではなく、知っているにこしたことはないが、知らなくても味わうことができる歌というのがあるのです。

 私は、こうした歌は、歌として成立していると考えます。次回からは、題材の曲を知らなくても、短歌作品として成立している作品群、というものをみていきましょう。

 

「かぎろひ」2016年5月号所収