歌会についての雑感その①

 「歌壇」11月号(2019年)の高野公彦の文章に、その昔、コスモスの東京歌会で、宮柊二が提出した歌を若い女性が酷評して、あとで作者名が判った時、女性はショックのあまり泣き出した、というエピソードが載っていた。
 このエピソード、短歌の世界ではわりとありがちなことだと思うのだけど、歌会とか結社とか短歌の世界のヒエラルキーとかいろんな話題が凝縮されていて、うまく行けば、近代短歌とは何なのかという、かなり深いところまで辿り着けるかもしれない。

 歌会は、基本的に遊興の時間である。歌の腕を上げるためとか、師から教えを乞うとか、そんな側面もなくはないだろうけど、今も昔も歌会というのは、歌の愛好家が集まってやる遊びだと思う。だから、やって楽しいことが第一である。ただし、楽しく遊ぶためには、集まった歌人みんなが了解したうえでの、いろいろな遊びの工夫というかルールというのが必要になる。
 少し前、「歌会こわい」なんてワードを見かけたけど、これは、楽しく遊ぶルールを誰かが逸脱していたか、あるいは、集まった歌人が了解しないルールがあったか、はたまた、その人が顕在していないルールを知らなかったせいと思う。
 歌会は、そんな怖い遊びではない。
 また、歌会を楽しくするための工夫というかルールは、歌会ごとにいろんな些細なことがあるので、それはそこここのメンバーで楽しいやり方を調節すればいいだろうと思う。つまり、ルールは参加者でつくればいいのである。

 歌会が遊興の時間であると主張するいちばんの理由は、無記名形式であるということ。これが完全に歌会とはお遊びである大原則となる。よくもまあ、こんな面白い遊びを考えたものだと歌の世界に漬かっているとつくづく思う。(記名形式の歌会もあるけど、これは例外としておきたい)。
 詠草を見て、誰の歌かわからないのである。つまり、ベテランだろうが、そうじゃなかろうが、年長だろうが若輩だろうが、とにかく、誰の歌かわからない。わからないまま、鑑賞する。そして、良いだの悪いだのを言うことになる。で、あまり偉そうな評をすると、あとあと名前が公表されたら恥ずかしい思いをしたりするので、つい、無難なことを言いがちになるが、別に酷評したってかまわない。遊興なんだから、そんなことにいちいち腹を立てていたらやってられない。
 はじめのエピソードに戻ると、若い女性が泣いちゃったのは、遊興の場だと経験的にわかってなかったからだろうと思う。
 短歌の世界というのは、今でもバカバカしいくらいヒエラルキーが残っている世界なのだけど(そして、このことについては、結社の話題でキチンと取り上げて、なんとか近代短歌とは何かまで辿り着きたいとは思うけど)、歌会は別ものである。上下関係のないフラットの場なのである。つまり、歌会は、短歌の世界では例外。だから、遊興の場なのである。遊びなのだ。
 だから、できるだけ性別や年齢がわからない歌を提出したほうが歌会としては面白い。
 たまに、作者当てをしたがる人がいるけれど、それもつまらないと思う。せっかく作者不詳で提出されているんだから純粋にテキスト解釈で鑑賞したほうが楽しいと私は思う。