穂村弘『水中翼船炎上中』にみる、オノマトペ技法の効用

 人や物の様子を形容したり説明したりするのに使われるオノマトペは、一般に慣用表現として広く意味が共有されている。そうした一般的なオノマトペは、慣用表現である以上、詩歌の修辞としては凡庸で平凡な表現という誹りを免れない。そこで、短歌形式では、そんな慣用表現としてのオノマトペをどうやったら詩歌の修辞として非凡なものにできるか、というのが作歌上の課題となった。なぜなら、短歌を含む詩歌とは、世の中にある慣用表現を、修辞技法の拡張によって、詩的修辞へ昇華させる実践といえるからである。
 そうして、オノマトペ表現の修辞技法としての拡張が、作歌の場面で様々に実践された。短歌でのオノマトペの使用とは、こうした実践上の道のりであったといえよう。
穂村弘『水中翼船炎上中』もまた、オノマトペ技法に注目して読むならば、そうした道のりの途上にある歌集と位置づけることが可能であろう。実際、歌集にはたくさんのオノマトペがある。私が数えたなかでは、三二八首中、実に七六首、割合にして二割をこえる。さながらオノマトペ技法のカタログといった様相である。
 本稿では、歌集中にあるそれらオノマトペ技法を整理しながら、これまでの実践でみられた技法拡張の延長線上にある用法の他に、本歌集で新たに実践されていると思われる用法を取り上げて、それぞれの効用を議論していきたい。

 これまでの技法拡張の延長線上にあるオノマトペ表現としては、次のような用法をあげることができる。

きらきらと自己紹介の女子たちが誕生石に不満を述べる

陽炎の運動場をゆらゆらと薬缶に近づいてゆく誰か

警官におはぎを食べさせようとした母よつやつやクワガタの夜

 

 一首目。「きらきら」は、自己紹介をしている女子たちが、きらきらしていると読める。「女子」「自己紹介」から、新入学やクラス替えのイメージが浮かぶ。けれど、この「きらきら」は、下句の誕生石のイメージにも重なる。つまり、この歌は、「きらきら」を新学期の女子と誕生石の二つのイメージに重ねている、と読める。
 二首目も同様。「ゆらゆら」は、「誰か」の様子を説明しているが、陽炎が「ゆらゆら」しているイメージにも重なる。三首目の「つやつや」も、夜行性である「クワガタ」の背中と「おはぎ」の両方に重ねている。あるいは、若かった母親の肌が「つやつや」していたという読みも可能である。いずれにせよ、「つやつや」に複数のイメージを重ねている。
 こうした用法は、ひとつのオノマトペにいくつかのイメージを重ねて、一首の詩的イメージを膨らませようとする修辞技法といえる。多くの言葉を詰め込めない短歌形式で、慣用表現であるオノマトペの意味の共有性を利用して、イメージを重ねていこうという用法であり、これは、これまでも実践されてきた。
例えば、北原白秋の『桐の花』から有名な一首。

君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ

 

 「さくさく」。舗石を踏む音に林檎を齧る音のイメージが重ねられている。また、朝空に雪が清らかに降るイメージを重ねることもできよう。「さくさく」から、これらイメージの重層的な効果を得ることができる。このようなオノマトペ技法の延長線上に、先に上げた三首があるといってよいであろう。
 では、次の作品からは、どんな技法がみられるか。

夜の低い位置にぽたぽたぽたぽたとわかものたちが落ちている町

みつあみを習った窓の向こうには星がひゅんひゅん降っていたこと

夜になると熱が上がるとしゅるしゅると囁きあっている大人たち

 

 一首目。「ぽたぽたぽた」。若者はそんな風には落ちない。そんな風に落ちるのは、水滴のような液体である。であるから、この作品は、コンビニの駐車場などの地べたに座っているような若者を水滴のようなものに喩えていると読める。
 二首目。「ひゅんひゅん」。星がそんなミサイルみたいに降ったら大変である。これは、みつあみを初めて習った女の子の心象のようなものを星の降る様に喩え、それがミサイルみたいに降っていたといいたいのだろう。
 これらの作品は、「わかものたち」や「星」や「大人たちの囁き」の様子を形容したり説明したりするのに、それらにふさわしいオノマトペではなく、水滴やミサイルや蒸気といった違うイメージの慣用表現であるオノマトペをぶつけて、詩的効果を生み出しているもの、といえる。
 こうした用法もまた、慣用表現として意味の共有が可能なオノマトペの特性を利用して、二つの違うイメージを重ねようとする、短詩型ならではの技法の拡張といえ、これまでも実践されてきた用法である。
  足もとに芽吹く間際の種ありてどくどくどくと日が暮れていく

                          勝野かおり『Br 臭素
  葉の匂いざあと浴びつつさきほどの「君って」の続き気になっている

                            江戸雪『百合オイル』
  あをぞらがぞろぞろ身体に入り来てそら見ろ家中あをぞらだらけ

                              河野裕子『母系』


 それぞれ、「日暮れ」に赤い血流を、「葉の匂い」にシャワーや通り雨を、「あをぞら」に人群れのようなものを重ねることで、重層的なイメージの効果をあげようというものである。
 こうした技法のほかに、本歌集には、オノマトペの音喩的特質に注目し、それを強調する用法もみられる。三首ほどあげておく。

さらさらさらさらさらさらさらさらさらさら牛が粉ミルクになってゆく

五組ではバナナはおやつに入らないことになったぞわんわんわんわ

ああ、死んだ、父は応えて、厳かにポットを鳴らす、うぃーん、ぃーん

 

 こうした用法は、主として音を模した独創的なオノマトペ技法の延長線上にあるものととらえてよいであろうし、また、ライトヴァース以降さかんに実践された音喩反復による詩的効果を狙った、実験的な用法の延長線上にあるともいえよう。
 以上、おおまかではあるが、これまで実践されてきたオノマトペの用法の一端をみてきた。こうした用法は、今後も様々な歌人に実践されることで、様々なバリエーションが生まれ、修辞技法として深化・洗練されていくであろう。

 では、次に、本歌集で新たに実践されていると思われる用法をみていくこととしよう。

夏休みの朝のお皿にさらさらとコーンフレーク零れつづける

晦日の炬燵蒲団へばばばっと切り損ねたるトランプの札

冷凍庫の奥の奥にはかちかちに凍った貯金通帳の束

ひんやりと畳の上の鯨尺踏んで見ている庭の向日葵

パンツとは白ブリーフのことだった水道水をごくごく飲んだ

 

 ここにあげた五首のオノマトペ、すなわち「さらさら」「ばばばっ」「かちかち」「ひんやり」「ごくごく」に、独創性はない。凡庸で平凡な慣用表現としてのオノマトペである。せいぜい、一首目にあるような「お皿にさらさら」といった韻律の処理のための使用にすぎず、修辞技法としてことさら議論することはない。また、これまで見てきたような、イメージの重層とか、違う慣用表現をぶつけようとか、音喩の実験とかというものでもない。用法としては、いたって普通、平凡である。これはいったい、どうしたことであろうか。
 こうした、平凡な用法にこそ私は、『水中翼船炎上中』にある、オノマトペの新しい用法とみる。すなわち、慣用表現であるオノマトペをあえて使用することで、一読、凡庸で平凡な作品に思わせるという用法である。
 集中には、少年時代の回想がテーマとなっている作品が多い。そこでの主体は、少年時代を回想している大人には違いないけれど、あえて稚拙な表現を使用することで、あたかも子どもが詠っているかのようなクロスオーバーが生まれる。そのうえ、もう戻れないあの頃、みたいな、ノスタルジーとか抒情性とかそんなものを醸し出すことも期待できるのだ。
 すなわち、現代短歌のオノマトペの用法として、あえて平凡な慣用表現としての使用は、作為された稚拙さを生み出し、さらに少年時代の回想といったテーマと共鳴し、ノスタルジーや抒情性をも生み出す効用がある、ということがいえよう。
 また、こうしたオノマトペのもうひとつの効用としては、当然ながらリズムが良くなるということがあげられる。リズムが良いというのは、それだけ歌が軽くなるということでもある。重厚な味わいといったものではなく、軽やかで表層的な気分をあらわすのに、平凡なオノマトペはぴったりなのだ。
 平凡な表現こそが新しい、といえるかもしれない。
 さて、こうした平凡ながら新しい用法には、次のようなバリエーションも生まれる。

長靴をなくしてしまった猫ばかりきらっきらっと夜の隙間に

さよならと云ったときにはもう誰もいないみたいでひらひらと振る

冷蔵庫の麦茶を出してからからと砂糖溶かしていた夏の朝

 

 これらは、オノマトペによって形容されるものが省略されている。すなわち、「きらっきらっ」と光るのは猫の目であり、「ひらひら」と振っているのは手であり、「からから」と鳴っているのは、コップにあたっているスプーンである。これらのオノマトペは、平凡な慣用表現であるがゆえに読者に揺らぐことのない共有の意味を持たせられるため、「目が光る」や「手を振る」や「スプーンがコップにあたる」といった説明をせずとも、読者は一読わかるのだ。慣用表現であるからこそ、省略が効くという用法というのは、多くの言葉を詰め込めない短歌形式としては、実に効果的な用法といえよう。
 さらに、オノマトペが慣用表現であることを利用することで、オノマトペそのものを物としてあらわすことができるようになる。すなわち、オノマトペの名詞化である。

お茶の間の炬燵の上の新聞の番組欄のぐるぐるの丸

商店街大売り出しの福引のからんからんと蟹缶当たる

 

 一首目は、新聞のテレビ欄に観たい番組を赤ペンなんかでマルしたものを「ぐるぐるの丸」と名づける。二首目は、福引の大当たりのときに鳴らされる鐘を「からんからん」と名づける。こうした名詞化は、本来は物の様子を説明するために使用されたオノマトペ用法の進化といえるかもしれない。ただし、これらは、幼児語と同じである。すなわち、幼児が、車が走っているのをみて、「ブーブーだ」と言っているのと同じであり、短歌表現の幼児化ともいえ、実は詩的表現の退行である、という主張も成り立つかもしれない。
 ともあれ、歌集中にあるこうした新しいオノマトペの用法が、この先、廃れていくのか、あるいは、深化・洗練されていくのか、今後も現代短歌のオノマトペの表現技法に注目していきたい。