歌会についての雑感その②

 歌会についての雑感の2回目。

 互選の話題から
 歌会によっては、互選をしたりしなかったりするが、これは、メンバーで決めればいい。私は、互選は一長一短があるので、どっちでもいいと思う。
 互選のあったほうが、ゲーム性が高まるし、必然的に詠草に序列をつけることになるので、適当な読みをしないというメリットがある。一方、その裏返しに、選をするには、しっかり読まなくてはいけないから、時間がかかるというデメリットがある
 互選というのは、その程度のものなので、票が多いとか少ないとかは実はどうでもいいし,票の多いのがいい歌というわけではない。それは、成員によるから、若輩が多ければ、若輩ウケするのに票が集まり、年寄が多ければ、年寄ウケするのに票が集まるだけのことである。けど、そうはいうものの票が集まるとやっぱり嬉しくなって、ついつい票が集まる歌を作りがちになるから、ここは注意が必要だと思う。

 

 歌会は、自分の提出した歌がどう評価されるかということに、まず第一の関心があるだろうが、そこそこ長く短歌の世界にいると、歌会の他人の鑑賞や批評なんてもうどうでもいいようになってくる。
 とくに批評というのは、歌会の参加者がおこなうのだから、はっきりいえば、参加者の質がよければいい批評になるし、質が悪ければダメな批評になる。つまり、歌会での歌の良し悪しは、参加者の質の良し悪しにかかってくるのだから、歌そのものの質とは別と思ったほうがよい。これは、さっきの互選の話題と同じ。参加者の質によって票の集まる歌は違うのと一緒。けど、そうはいうものの、褒められれば嬉しいし、酷評されるとへこむ。
 けど、だからといって、参加者の質に合わせた歌をつくると、質が高ければいい歌がつくれようが、質が悪ければそれなりの歌しかできなくなる。これも当たり前といえばそうである。
 気を付けなければならないのは、参加者に「この歌は、わからない」と言われること。これは注意が必要で、自分が本当に「分からない」を提出したのか、それとも、そう言った人があまり鑑賞する力のない人で歌をちゃんと読めなくて「分からない」といったのかを見極める必要がある。
 基本的にちゃんと歌を読めない参加者が「分かる」歌というのは、たいした歌ではないのだから、別にその人にわかってもらわなくてもいいという割り切りが必要である。けど、そこまで割り切ってしまうと、何のために歌会に参加しているのか、それこそわからなくなってしまうので、つい、万人に分かってもらおうとするツマラナイ歌を提出しがちになる。この割り切りがうまくできると、どんな歌会に参加しても一定程度のアベレージを保った歌を詠めるようになる。
 けど、実は、こうした話題というのは、歌会についていうと重要なことではない。前回の繰り返しになるが、歌会の大前提は遊興の時間なのであるから、参加者の質などというのは二義的なことなのである。いろんな世代の人や歌歴の人が集まって、集まった人みんながいかに楽しい時間を過ごすかということを考えたほうがいいと思う。
口に出さなくても、今日のこのメンバーの中で、この人の鑑賞や批評は傾聴に値すると思えば、その人の鑑賞や批評を参考にすればいいだけである。

 

 さて、自分の批評なんてどうでもよくなると、では歌会の楽しみは何かというと、他人のいい歌に出会えるかどうかということになる。けれど、これがなかなか出会えない。だから、懲りずに何度も歌会に参加するということなのかもしれない。
 出会うことが絶対にない、となれば、はじめから歌会には参加もしないだろうが、たまに、これはすごい歌に出会った、なんていう経験があるから、わざわざ飛行機に乗って宿とってまで参加するようにもなったりする。
 あと、もう一つの歌会の楽しみは、いい批評に出会えるということ。パッと鑑賞して、いまひとつの歌だなあ、と自分が思っても、誰かが素敵な批評をすることで、その歌がいい歌へと自分のなかで変貌することがある。
 これは、そもそもの自分の批評眼が曇っていたのであり、それを晴らしてくれたということと同時に、いい歌に出会う機会をえた、ということでもある。とても有難いと同時に、自分の批評眼のしょぼさを恥じるということになる。
 歌会の席で何喰わぬ顔をしていながらも、俺もまだまだだなあ、なんて思っている。しかしながら、こういう機会もほとんどない。大体は、どうにも的をはずした鑑賞や批評が結構あって、そういう読みじゃないだろ、と腹の中で思っている。もちろん、それはお互いそうで、歌会は、読み違いが普通にあるものなんだと最近は割り切って鑑賞している。
 前回の冒頭の宮柊二を酷評して泣いちゃった若い女性も、もし歌を続けて中年女性になっていれば、私のようなことを思うようにもなっていらっしゃるんじゃないかしらね。