「歌のある生活」24「音楽」の歌その11

 ポピュラー音楽についての二回目です。ポピュラー音楽というのは、クラシック音楽と比べて、音楽そのものを詠うのが難しい。なぜなら、その音楽を知らなくちゃあ読者は共感しようがないからだ。そこで、どうしても社会風俗を主題にして、そのモチーフとして流行歌なり演奏家なりを持ってきがちになるのではないか。というようなことを、短歌作品を鑑賞しながら検証していきましょうというのが、ここからしばらくの話題です。

 ところで、この社会風俗、これをシニカルにうたうのではなく、あくまでも肯定的にうたった作品群としては、何と言っても前回取り上げた俵万智の『サラダ記念日』がそのはじまりといえるでしょう。ですので、この歌集には、当時の流行歌を素材にしている作品がいくつかあります。

 思いきりボリュームあげて聴くサザンどれもこれもが泣いてるような

「路地裏の少年」という曲のため少しまがりし君の十代

ダウンタウンボーイの歌を聴きながらミルク飲む朝 君に会いたし

 一首目、サザンはサザンオールスターズのこと。これは大丈夫でしょう。三十年たってもまだ読み解けます。けど、二首目はどうでしょう。「路地裏の少年」は、浜田省吾のヒット曲。この題名、今となっては、えっと何だっけ、という人も多いのではないでしょうか。三首目のダウンタウンボーイになると、もう、皆さん、忘却の彼方。そういうわけで、時代の空気みたいなものを歌に取り入れよう思って、ポピュラー音楽を素材に持ってきても、流行歌の宿命とでもいいましょうか、たかだか三十年で、もう、その頃の空気感は味わえない、ということになるのです。

 ただし、歌人はそんなことは先刻承知で、その時代の輝きを一首に託している、という意見もなりたつでしょう。

 前回あげた藤原龍一郎はどうでしょう。

 首都高の行く手驟雨に濡れそぼつ今さらハコを童子を聴けば   『嘆きの花園』

 この歌、私は秀歌だと思います。

 山崎ハコ森田童子が詠われています。この歌の巧いところは、下の名前だけで誰だかわかる個性的な名前の歌手であり、かつ、その名を聞けば、どんな音楽なのかのイメージがつくということです。

 しかし、そうはいっても、この作品の発表から二十年たった今の時代、ハコ、童子と聞いて、皆がみな、ピンとくるわけではないでしょうし、ましてや、彼女らのヒット曲が思い浮かぶというわけでもないでしょう。この作品もそのうち、俵万智ダウンタウンボーイのように、読み解けない人が多くなってしまうことでしょう。

 では、この歌、時代の輝きだけの歌なのか、というと、私はそれだけではないと思います。「今さら」がポイントです。バブル崩壊後の世紀末東京の喪失感や倦怠感を七十年代のハコや童子を持ってくることで(だから「今さら」なわけです)郷愁を漂わせているわけです。ですので、単に流行歌を素材に世紀末東京の空気感を詠っているわけではないのです。この点が秀歌と思う理由です。

 ですから、ハコや童子は取替え可能な歌です。もし、世紀末じゃなくて、二〇一七年現在の首都東京の喪失感や倦怠感を歌いたいなら「今さらJUJUをAikoを聴けば」とか詠っても、まあ、歌の良し悪しは別にして、一首として成立するわけです。