ふるき日本の自壊自滅しゆくすがたを眼の前にして生きるしるしあり(土岐善麿)

  敗戦直後の歌である。土岐は、それまでの体制や思想を「ふるき日本」といい、それが自壊自滅してゆく様を眼の前にする。しかし、結句で「生けるしるしあり」と詠う。これは万葉歌(「御民われ生ける験あり…」)からひいてきているのであるが、ここの鑑賞が、今の時代からすると、ちょいと厄介だ。

 この土岐のひいた万葉歌は、天皇賛美の歌である。戦時中は、教科書に載り子どもが唱和していたというから、メジャーな歌であったろう。では、この万葉歌を戦意高揚の換喩とするなら、土岐は皇国日本の国体が自壊してゆくことへのアイロニーとしてひいたのか。

 いや、私はそうは読まない。敗戦直後、土岐にして国体の存続は自明であった。皇国日本の国体への疑義が生まれるのは、ずっと後のことだ。土岐は、万葉歌をひくことで連綿と続いてきた国体をおもい、戦後日本のいやさかを願ったのだ。そして、そのような心情は、当時の国民共通であったに違いないと、今に生きる私は思いをはせるのである。

「短歌人」2015年3月号所収

 

 

大正のマッチのラベルかなしいぞ球に乗る象日の丸をもつ(岡部桂一郎)

 なぜ、作者はマッチのラベルをみて「かなしいぞ」と思ったのか。

 そもそも、私は歌にあるマッチ箱がどんなものか知らない。もちろん今の時代、ネットで画像検索すれば、たちどころに日の丸を持った象の絵柄がディスプレイに映る。なので、作者のうたうマッチのラベルは、大正文化を知らぬ者たちも共有できる。そこで、ああこの歌は、このマッチ箱をうたっているのね、と作者の心情に寄り添うことは可能だ。

 けれど、この歌は奔放に過ぎる。どうも作者は読者に寄り添ってほしいなどとは、はじめから思っちゃいないのではないか。マッチのラベルも、俺の「かなしいぞ」も、別に読者にわかってもらおうなんて思っちゃいない、という作者の気ままさを私は感じる。

 ただ、そんな作者の気ままさに、こちらとしては逆に惹かれてしまい、作者はなぜ「かなしいぞ」とうたっているのかを詮索せずにはいられなくなるという、逆説にとんだ実に魅力的な一首となっている。

「短歌人」2015年2月号所収

 

うづくまるわが片頬に光さし自負の心のたかまらむとす(三國玲子)

作者はうずくまっている。なぜ、うずくまっているのかは、わからない。わからないけれど、うずくまっているというのだから、体をまるくしてしゃがみこんでいる。そして、おそらくはしばらくの間、そのままでいたのであろう。そこに、光が差してきた。光が朝日なのか、あるいは希望の光とでもいうものなのか、なんなのかはわからない。とにかく光が作者の片頬にあたった。

 そして、四句目だ。これが、この歌のポイントだ。「自負の心」である。作者はうずくまっていたが、光を片頬に受けたことで、自身のなかから「自負の心」がたかまってきたというのである。

 なんて若々しく、力強い歌なのだろう。「自負の心」と大上段に歌われては、私はもう作者の前に平伏したい心境にすらなる。

作者が、戦後の女性の社会進出を背景として、自立した女性像を詠んだ先駆であったという来歴もまた、この歌の力強さを補完しているといえよう。

 

「短歌人」2015年1月号所収

 

4月になっていた

 2月に、ドンと落ちることがあって、そのまま年度がかわってしまった。

 4月になって、やっと気持ちが戻ったという感じである。

 それまでは、Blogを書こうなんていう気にまったくならなかった。

 また、ドンと落ちるまで、そろそろと更新である。

札響シベリウスツィクルスに行く

 今週末は、尾高忠明、札幌交響楽団シベリウスプロである。

 5、6、7の順に演奏するのもニクい。演奏会の盛り上がりを考えたら、スケールの大きい5番がメインプログラムにふさわしいだろうが、5、6、7番を演奏するなら、やはりコンサートの締めくくりは7番だろう。7番で終わってこそ、シベリウスツィクルスだ。

 ここのところ毎日、通勤の車内でシベリウスを聴く。旭川の真冬にシベリウスを聴いたら、凍えてしまうけど、せっかく定期で聴くのだから、それなりに聴きこんでおきたいのだ。

 私にとってシベリウスの音楽は夏である。夏にこそ、あの冷涼な音楽がぴったり合う。

 冬に聴くという人もいるらしいが、北海道の冬にシベリウスを聴いたら凍えてしまう。やはり、夏の早朝か夕暮れあたりに聴くのがいちばんだ。

 私は、30代の一時期、中富良野に住んでいた。中富良野の夏はシベリウスの5番が似合った。娘が3歳くらいのとき8月の夕暮れにシベリウスの5番を聴きながらドライブをしたことがあった。娘は助手席に座りご機嫌だった。多分、そのときの私は幸せだったのだろう。だから、いまでも5番を聴くたびに、あの頃のころを思いだす。そして、思い出すと、切ない気持ちになる。なぜなら、幸せだった頃のことを思い出しても、それは、かえらない時間なのだから。

 5番はスコアをみると、実に細かく書き込まれているのがわかる。

 森のざわめきが弦の弱奏で表現されている。

 ちなみに、他の曲のスコアはいうと、6番はシンプル。7番は、曲もスコアもやっぱり難しいという感じだ。

 3歳で私と一緒に中富良野をドライブした娘も15歳になった。不機嫌な顔をして、受験勉強をしている。もちろん、札響定期など私と一緒に行くはずもない。だから、私は、今年も一人で聴きに向かうのだった。

 

尾高・札幌交響楽団 シベリウスツィクルスの記録

 2014年のシベリウスプロは、「恋人」、4番、2番だった。

 私は、最後尾の尾高シートで観る。隣の老人と若い女性の2人組が、4番は知らない曲だといっていたのが印象的だった。

 実は、私は2005年に札響定期でこの4番と7番を聴いている。もう1曲は「ポヒョラの娘」というオールシベリウスプロだった。当時は、4番も7番もよくわかっていなくて、あまり印象にのこらなかった。あれから10年がたち、私はシベリウスをしっかり聴きこんだ。だから、この年の定期はしっかりと楽しむことができた。

 けど、やっぱり尾高シートはどうしてもバランスが厳しい。別に、団子になって聴こえることはないけど、やはりバランスが変だなあと思いながら聴いていた。

 以下は、短いながら、当時のレポート。

 

 昨日は札響定演でした。シベリウスプロ。「恋人」はシベリウスの秘曲の類。はじめて聴いたが、弦の響きが実にうつくしい、繊細な曲だった。Sym4.は、極めて重厚。流さずにじっくり重たい表現に徹していた。しかし、終楽章だけは、アレグロで突っ切る。そのまま、唐突に終える解釈でした。

 Sym2は、熱演。4番とはガラリと違う、颯爽とした演奏。それにしても、やっぱり弦が美しい。終楽章もたっぷり鳴らして、大満足の演奏でした。また、来年、5,6,7を楽しみにしましょう。

尾高忠明指揮 札幌交響楽団 シベリウス 3&1番

 2013年から始まった、尾高忠明指揮、札幌交響楽団シベリウスチクルスも今回で終わりとなる。私は毎年、聴きに行っている。今週末も行くつもりである。

 私の2013年のレポートがあるので、載せることにします。

 

 札響定期シベリウスプロ感想。尾高忠明指揮。はじまりはフィンランディア。愛国的熱狂とは、対極の演奏。テンポもダイナミクスもスコア通りの模範的演奏という感じか。尾高氏は腰から下は、全く動かず。上肢による指揮。

 続いて交響曲第3番。1楽章、フィンランディアとはガラリと変わって明るさを全面にだす。尾高の解釈がよくわかる。これが音楽監督の演奏というものか。尾高のオケへの指示が、指揮からよくわかる。要所をしっかりとおさえて流さない。ホルンが抑え気味だったのが印象的。

 2楽章。シベリウスの妙ちくりんんなオーケストレーションが楽しい。アンダンテ、冗長にならないギリギリのテンポ感。
フィナーレ。低弦をしっかり歌わせる解釈。終結に向かってどんどん重くなるのは、評価が分かれるかも。疾走する演奏しかディスク持っていないので、意外だった。全く違う印象。

 後半は第1番。冒頭の夜明け前、クラリネットブラボー。後ヴァイオリンを歌わせながらもどんどん流れる。全体のテンポは中庸。尾高の棒はフォルテも暴れない。2楽章。中間部の吹雪の演奏がすばらしい。ここのトゥッティはピタリとはまる。前後の弦の弱奏がもっと響くと良かったと思うのは欲目か。

 3楽章。早めのテンポ。そのなかで木管のアンサンブルが凄い。この楽章が一番オケのバランスが良かった。フィナーレ。結構難曲。冒頭ユニゾン。尾高の解釈が、オケにしっかり伝わる。アレグロも、棒がオケを抑制。後半の民族的演歌的落涙的メロディは切々と歌う。

 終結の難しいところは、オケに無理をさせずまとめる大人の演奏。終わってしばらくの静寂も良かった。客席は、拍手とため息。中間の民族舞踊の部分は金管と打楽器が強かったが、これは私の席のせいだろう。なかなかの名演。来年は、2番と4番。来年は向かいの尾高シートにしようか。

 

(2013年3月記)