「歌のある生活」7国語教科書のなかの歌③

 中学校国語教科書に取り上げられている短歌作品の話題です。

 最近の教科書の多くは、はじめに短歌入門として歌人のエッセイがあって、短歌というのはこんな感じの文芸なのですよ、と映画でいえば予告編のようなものを読んでから、本編である短歌の鑑賞にはいります。私の娘の教科書も、馬場あき子のエッセイに続いて、教科書の編集者がセレクトした十二人の歌人による十二首が載っています。

 さて、この十二首、どうやってセレクトしたらいいでしょうか。選者の好みというわけにはいきません。あるいは、何か特別な短歌観とか崇高な選者眼とかいったもので選ばれても困ります。そうではなく、短歌にはじめて触れる中学生に「短歌とは、こういうものだ」というような、スタンダードな作品であるということがまずは必要でしょう。それから、いろんな歌風のものをバランスよく取り上げることも重要です。文語ばかりとか、男性歌人ばかりとか、抒情歌ばかりとか、そういうわけにはいかない。現代までの短歌の流れを上手に敷衍できるバランス感覚が必要です。そのうえ、中学生の感性に合って、平易な歌であることも大切でしょう。興味も持てず、難しく、学習するうちに短歌が嫌いになってしまってはいけません。「短歌って、おもしろいなあ」と思ってもらわないといけないのです。

 と、まだまだほかにも選ぶ要素がありそうですが、とにかく、選ぶためにはいろいろと考えなくてはならない。感性のままに十二首を選ぶわけにはいかないのです。

 では、そんな編集者の意図を推察しながら、光村図書の国語教科書に載っている作品を順にみていくことにしましょう。十二首の順番は、作者の生年順ですので、順番に読んでいくことで、だんだんと近代から現代にうつっていくことになります。それから、すでに馬場あき子のエッセイで紹介された、正岡子規与謝野晶子斎藤茂吉北原白秋寺山修司俵万智はエントリーに入っていません。

 最初は、この歌人からです。

 鳳仙花ちりておつれば小き蟹鋏ささげて驚き走る           窪田空穂

 この歌は、定型をきちんとおさえていて調べもよく、短歌のお手本としては申し分ない作品です。中学生にも理解が容易く、ユーモアもあってなじみやすい作品といえましょう。まさしく教科書的な短歌といえましょう。

 次のエントリーは牧水の作品です。

 白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ       若山牧水

 この歌を教科書に載せた編集者の見識はすばらしいと思います。やはり、教科書で歌人の代表歌を紹介するのはとても大切なことと考えます。

 高校でも現代文の授業で短歌を学習するでしょうから、これからも牧水に出会うことはあるかもしれません。けどそうはいっても、これで牧水の短歌を味わうのは最後の生徒もいるかもしれない。そんな一期一会の出会いかもしれないのであれば、やはり、生徒には牧水の代表歌を紹介したい。そんな編集者の思いが私には伝わります。

 ちなみに、この歌では鳥や空や海の色彩に注目させて、その情景を十分イメージさせながら、作者の心情を理解する、といった学習になります。短歌観賞の王道である、作者の私情に踏み込んでいくわけです。

 

「かぎろひ」2014年7月号所収

「歌のある生活」国語教科書のなかの歌②

 前回からの続きです。

 中学校国語教科書にある馬場あき子のエッセイの話題でした。

 馬場は、中学生に紹介する近代短歌の作品として、はじめに正岡子規をとりあげたのでしたが、さて、子規に続く作品として誰を紹介しているでしょう。

 二人目も近代短歌の代表歌人です。そして、一人目が男性でしたから、二人目は女性の代表者がいいでしょう。となりますと、そうですね、この人になります。

 川ひとすぢ菜たね十里の宵月夜母がうまれし国美くしむ       与謝野晶子

 馬場は、子規の次に晶子を紹介しています。これは順当といえるでしょう。ただ、晶子を紹介するのはいいですが、前掲の歌を中学生に紹介するのは、私には、やや変化球のような気がします。私だったら、ごくオーソドックスに、この歌を中学生には紹介したいと思いますが。

 なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな

 それはともかく、馬場のエッセイに戻ると、こののち、斎藤茂吉北原白秋を紹介した後、現代短歌にうつります。馬場は、現代短歌のことを「今日の短歌」と言って中学生に説明しています。馬場なりの用語の選び方なわけですが、そんなところにも中学校教科書のエッセイを読む面白さがあります。

 では、その「今日の短歌」の代表歌人として、馬場は誰をあげているか。馬場は、寺山修司をあげています。

 けど、ここで少し考えてしまいます。現代歌人の代表として寺山をあげることに異論はないけれど、果たして中学生に寺山の歌はどうだろうかと。これが、高校生だったら、いいと思います。寺山の短歌にある詩情、あれは高校生にはぴったりでしょう。けど、中学二年生にはちょっと早いのではないか。もちろん、早熟な中学生なら、寺山の世界はハマるかもしれませんが、中学生がはじめて触れる短歌作品として、寺山はどうだろう…。

 けれど、ありました。中学生にも共感できるであろう、ぴったりの一首が。なんだかわかりますか? そう、この歌です。

 海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり      寺山修司

 これは、いいですね。中学生にも読解がたやすく共感もできるでしょう。中学生もじゅうぶん寺山の世界を味わうことができます。

 さて、馬場のエッセイも終わりに近づきます。最後、もう一人、現代の歌人を紹介しています。それは、俵万智です。

 俵万智の作品なら、中学生の感性にぴったりの歌がいっぱいあります。いっぱいありすぎて、どれを紹介しようか迷うくらいですね。

 馬場は、寺山修司の麦わら帽子に関連させて、俵万智の代表歌を紹介します。そうです、この麦わら帽子の歌です。

 思い出の一つのようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ      俵万智

 これを短歌入門エッセイの最後に持ってきたのでした。この歌で、それまでの近代短歌とは違う現代的な情感を味わいながら、それが口語によっているためであるとか、句またがりや句割れという技法にも関係があることにサラリと触れたらいいでしょう、というのが馬場のこの歌をとりあげた意図なわけですね。さて、このエッセイを入口として、いよいよ短歌の学習に入っていきます。

 

「かぎろひ」2014年5月号所収

「歌のある生活」国語教科書のなかの歌①

 私には中学2年生の娘がいます。

 中学2年生というのは、国語の授業で短歌を習う学年です。娘の国語教科書には、はじめて短歌に触れるであろう中学生にふさわしい(と思われる)作品が載っています。これがいろいろと興味を誘います。

 今回から数回にわたって、国語教科書のなかの歌について、いろんな角度からお喋りしたいと思います。

 中学生の短歌の学習ですが、大きく分けて二つの学習事項があります。それは、観賞と表現技法の理解です。生徒は授業で、いくつかの短歌作品に触れながら、この二つを学習していくことになります。

 けれど、はじめて短歌に触れるであろう中学生に、いきなり短歌作品を紹介して、さあ、読解して味わえ、といってもそれは難しい。そこで、最近の教科書は、いきなり短歌を観賞するのではなく、短歌ってこんな感じで読み解くといいですよ、というような内容のエッセイを載せて、そこから短歌について学習させるというやり方をしています。いわば、短歌学習へ生徒をソフトランディングさせようという編集方針なわけです。

 そのエッセイですが、娘の教科書は、馬場あき子による書き下ろしを載せています(娘の教科書は光村図書のもの。これから紹介する短歌も、すべて光村図書に拠ります)。

 さて、ここで皆さんにクイズです。馬場が、はじめて短歌に触れるであろう中学生に、最初に紹介する短歌作品は何でしょうか?

 やはり、何事も最初が肝心です。中学生にも味わえるような平易で、そしてなによりポピュラリティのあるのがいいでしょう。いきなり難解な作品を持ちだして、悪印象を持たれてはいけません。

 正解は、この歌です。

 くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはやかに春雨のふる      正岡子規

 まずは、近代短歌の代表歌人として正岡子規を馬場は紹介しています。もちろん、子規の歌なら何でもいいわけではなく、馬場は、いくつもの深い意図を持って、この作品を第一首目に持ってきているのです。

 その意図とは何かというと、まず、短歌というのは三十一音の定型詩ですよ、ということをおさえるわけです。はじめて短歌に触れるときに、破調や、句跨りの歌といった変化球はマズい。ちゃんと定型のお手本になる歌を紹介する。それから、声に出してみて調べがいいというのも、大切な要素でしょう。そうした意図を持って、馬場はこの歌を第一首目に持ってきているのです。

 まだ、あります。観賞するとき、読んでぱーっと情景が思い浮かぶというのが重要です。なぜ、情景かというと、教室の生徒がみんな同じ解釈になるためです。歌の解釈に揺れがないこと。中学生に歌の情景を絵に描かせたら、みんな同じ絵になるような歌といってもいいでしょう。こうした歌が一首目には良い。これが、作者の内面を詠んだ歌となると、読み手側にさまざまな解釈ができてしまう。もちろん、さまざまに解釈することは国語の学習では大切なことには違いがないのだけど、短歌のはじめで、それを学習するのは、まだ早い。まずは、みんなが共通の情景を思い浮かべることのできる歌を取り上げる。

 という意図を持って、馬場はこの歌をセレクトしたのです。そんなことエッセイには書いていませんが、恐らくはそういうことです。

 

「かぎろひ」2014年3月号所収

「歌のある生活」インターネットの世界の歌④

 インターネットの世界にはブログと呼ばれるサイトがあります。ブログとは、個々人の公開日記みたいなものと思えばいいでしょう。その日にあった出来事や折々の場面で自分が思ったことを書き込んで、ネットを通してあらゆる人に読んでもらうというものです。画像を張り付けている人も多いですね。

 けれど、このブログに、私的な出来事を綴るのではなく、世の中の事柄について、個々人の意見や記事を書きこむ人もいます。いうなれば、個人発行の不定期ミニコミ誌みたいなものでしょうか。それは、短歌のジャンルについても同様です。ブログに、短歌に関する評論や時評や書評を定期的に書きこんでいる方がたくさんおります。

 私は、そうしたブログを定期的に開いては読んでいます。無料で個人が発行しているミニコミ誌を定期購読しているみたいなものです。無料の定期購読というと、どうにも矛盾した表現ではありますが、そこにある書評や評論は、定期的に目を通す価値のある、書店に並んでいる短歌総合誌にひけをとらない、なかなかのクオリティだと私は思っています。

 現在私が定期的にチェックしているのは、東郷雄二による歌集の書評サイト「橄欖追放(かんらんついほう)」、奥田亡羊、田中教子、永井祐の各氏による一首評サイト「短歌周遊逍遥」、詩歌サイト「詩客」のなかの「短歌時評」といったページです。

 東郷雄二のブログは、現代短歌の最前線にある歌集をいちはやく評論するといった趣です。まさしくネット向きの書評といえるでしょう。現代短歌の書評になりますので、いきおい若手歌人の歌集を取り上げることが多いです。今、氏のブログを開いたら堂園昌彦の第一歌集の評がアップされていました。

 

 夕暮れが日暮れに変わる一瞬のあなたの薔薇色のあばら骨     堂園昌彦『やがて秋茄子へと至る』

 球速の遅さを笑い合うだけのキャッチボールが日暮れを開く

 奥田亡羊、田中教子、永井祐による「短歌周遊逍遥」というブログは、各人の関心のある歌を取り上げて、自由に評論しているものです。あるときは、奥田が大橋巨泉の「はっぱふみふみ」を大真面目に評論していたりして、こうした自由さもネット的と思いました。

 みじかびのきゃぷりてとればすぎちょびれすぎかきすらのはっぱふみふみ 大橋巨泉

 こんな戯歌を「なかなかの名歌」といい、「みじかび」と「はっぱふみふみ」が「季節感を共有して響き合っている」と評するなんて、まさに奥田の真骨頂かもしれません。

 今、ブログを開いたら、奥田は次の歌を紹介していました。

 たは易く人に許ししその過去を我よく知れり知りて溺れつ    小見山輝『春傷歌』

「詩客」というサイトは、短歌だけではなく、詩と俳句の創作も載せていますので、ネットで読む詩歌総合誌といった感じです。森川雅美が編集者として定期的に更新しています。そこにある「時評」欄は、編集者の依頼を受けた歌人が持ちまわりで書いています。

 今、ブログを開いたら、山田消児が現代短歌評論賞受賞作品を中心に論じていました。

 恐らく、私が知らないだけで、質の高い短歌ブログはまだまだあることでしょう。それだけ歌人の中には、創作だけではなく、評論への意欲も旺盛な人が多いということなのでしょう。

 

「かぎろひ」2014年1月号所収

「歌のある生活」インターネットの世界の歌③

 皆さんは、ツイッターをご存知でしょうか。これ、ごく簡単に言うと、一四〇字以内の短文をネット上で「呟い」て、それを投稿するというものです。橋下徹大阪市長の「呟き」に一〇〇万人ものフォロワーがいることがニュースになったりしましたが、登録をすれば誰の「呟き」でもネット上で読むことができます。私も橋下氏の「呟き」をフォローしていますので、一〇〇万人のなかの一人ということになります。

 私の場合はというと、橋下氏を含めて一二〇人ほどの「呟き」をフォローしています。となると、毎日一二〇人分の「呟き」が私のケータイに流れるのかというと、そういうわけではありません。一日に何度も「呟く」人もいれば、数ヶ月に一回しか「呟か」ない人もいます。橋下氏の例でいえば、氏は一日に三〇回以上「呟く」こともあれば、公務が忙しいと何日も「呟か」なかったりもします。

 私は橋下氏のほかに、全国にいる歌人の「呟き」をフォローしています。歌人であれば自作の歌を「呟い」て、それをツイッター上に投稿しているのではないかと思いがちですが、私がフォローしている歌人のほとんどは、自作の短歌を「呟く」ことはありません。これは、私たちの作歌を思い起こせばわかりますが、短歌を作るのと、思ったことを「呟く」のは、全然別の所作ということですね。それに、ツイッターに自作を投稿しなくても、自作を発表する場はほかにもあるということなのでしょう。

 しかし、自作を「呟く」ことはしなくとも、他の人の歌を「呟く」歌人は多くいます。つまり、自分が「あ、この歌いいな」と思った歌を、どんどんツイッター上で紹介するのです。ですから、私のケータイには、毎日、私の好みにかかわらず、いろいろな人の歌が流れています。例えば、今日だったらこんな歌が流れてきました。

 およげるにちがひなからん子供らの頭見えねど太鼓はきこゆ     木下利玄『紅玉』

 「見せてくれ心の中にある光」小沢健二も不器用な神        千葉聡『微熱体』

 わが頭から帽子をさらう海のかぜジョゼフ・フーシェは子ぼんのうなり

斉藤真伸『クラウン伍長』

 あたらしき生姜を擂ればこの夏の地霊かそけくわれに添ひくる   島田修二『春秋帖』

 こうしてツイッターでフォローしなければ出会うことのなかったであろう歌たちに私は毎日出会うのです。あるときは、なんと私の歌もツイッター上に流れてきました。

 春の日に組織を抜ける爽快よストラヴィンスキを聴いて愉しむ 桑原憂太郎「短歌人」(2013年6月号)

 私の歌を「呟いた」のは、「アゼリア街の片隅で」という名前の方。

 この方、私は一面識もありませんし、どなたか知りません。けど、この方は、面識のない私の歌を恐らくは「短歌人」誌で読んで「あ、この歌いいな」と思って、ツイッターに投稿したのでしょう。そう思うと、私はとても嬉しい気持ちになります。見ず知らずの方に私の歌が届いたのですから。

 もしかしたら、この「かぎろひ」誌にある歌もまた、誰かがツイッター上で「あ、この歌いいな」と思って「呟い」ているかもしれません。私たちが知らないだけで、インターネットの網の中に皆さんの歌が漂っているかもしれないのです。

 

「かぎろひ」2013年11月号所収

「歌のある生活」インターネットの世界の歌②

 皆さんは、題詠はお好きでしょうか。

 ただし、好きだという人でも、一〇〇の題を順番に一年間かけて詠むというイベントの存在については、あまりに突飛すぎて、驚かれるのではないでしょうか。

 そんな酔狂なイベントがインターネットの世界では毎年行われています。

 五十嵐きよみの主宰する「題詠Blog」のサイトです。はじまりは、十年前の「題詠マラソン2003」というネット上のイベントでした。これは、先ほど申し上げた通り、一〇〇の題詠を順番に詠みこんで一〇〇首投稿するというイベントで、マラソンになぞらえて、一〇〇首詠みきった参加者を完走者と呼んだり、早く詠み終えた参加者から順位をつけて表彰したりしていました。

 こうして完走者が詠んだ歌の数々は、『短歌、WWWを走る。』(邑書林、二〇〇四年)というアンソロジーとしてまとめられもしました。当時、歌壇では時評などでも取り上げられて、ちょっとした話題になりましたので、ご記憶の方もいらっしゃるかもしれません。

 この題詠のイベント、実は、現在でも毎年行われています。今年二〇一三年で、一一年目になります。例年、参加者は三〇〇名以上、完走者も一〇〇名を超えています。短歌のイベントとしては、なかなかの参加者数ではないかと思います。年齢層も幅広く、七〇代とおぼしきランナーも散見されています。

 昨年、二〇一二年がちょうどイベント一〇周年ということでしたので、記念誌の意味もこめて、またアンソロジーがでました。それが『短歌、BLOGを走る。2012』(牧歌社、二〇一三年)です。ここには、完走者一二九名のなかから有志三六名による四二五首がおさめられています。

 

とびっきり陽気に歌う鳥ばかり集まれパパゲーノの鳥籠に 五十嵐きよみ(題は籠)

ため息をついている人ばかり立つ飯田橋駅快速通過         村田馨(息)

やうやつと網にかかつた情報をつなぎ合はせて企画書を編む   桑原憂太郎(企)

軸足をいずこにせむか迷いつつ確信持てぬ論を説きおり     西中眞二郎(軸)

固めたる決意の隙を突くようにカレーうどんの汁は飛び散る   はぼき(カレー)

 

 ちなみに私、桑原憂太郎は、二〇〇四年より毎年参加、毎年完走をしていますので、これまで九年間で九〇〇首投稿したということになります。私のように、毎年参加している歌人もいれば、今回が初参加という歌人もいます。歌歴も、浅い方もいれば、歌集を出しているベテランの方もいますし、また、無所属の歌人もいれば、結社に所属している歌人までいろいろです。ついでにいうと、歌誌のペンネームとネット上のハンドルネームを使い分けている歌人もいて、出詠の名前だけでは誰だがわからなかったりします。

 主宰の五十嵐きよみは、一年でも長く続けていきたいと思う、と本書のなかで言っていますので、これからも毎年開催されるのではないかと思います。私は、だんだん体力(知力?)も落ちてきて、一〇〇首走りきるのもきつくなってきており、そろそろ辞めようかと思っておりますが…。

 そういうわけで、興味をもたれた方は、どうぞ「題詠ブログ」で検索してみてください。たくさんのランナーのたくさんの歌があふれています。イベントは毎年一一月までやっています。

 

「かぎろひ」2013年9号所収

「歌のある生活」インターネットの世界の歌①

 皆さんは、いつどこで歌を詠まれるのでしょうか。ベテランの皆さんでしたら、いつでもどこでも、旅先や散歩中などは当然のこと、仕事中や休日も、リビングや就寝前や入浴中、もしかしたら夢の中でも作歌されているのではないでしょうか。常にさっと詠めるように、メモを持ち歩いている方もいるかもしれません。もしかしたら、メモの代わりにケータイメールやタブレット端末に打ち込むというモバイル歌人もいるかもしれません。

 けれど、そうして詠んだ歌を推敲し一首として完成させるのは、どこでしょうか。おそらくは、原稿用紙のある机の上か、プリントアウトするためのワープロやPC(パーソナルコンピュータ)の前ではないかと思います。

 私は、作歌をはじめて一〇年そこそこですが、いつも詠むのはPCの前。常にPCのディスプレイに向かい歌を詠んでいます。

 そうやってウンウン唸りながら歌を打ち込むわけですが、PCはインターネットにつながっている。クリックするとすぐにネットの世界がある。もう、誘惑がいっぱいある。なので、いつも作歌なんてそっちのけになって、ネットの世界で遊んでいます。

 さて、そのネットの世界ですが、あちらの世界にも歌人はいるわけで、毎日たくさんの歌が網目に漂っています。

 私が作歌をはじめた頃は、HP(ホームページ)が全盛で、個人でHPを作成しては、そこに自分の歌を載せている歌人が多くいました。けれど、そのうちネットの世界はHPからブログに移ります。ブログはHPよりもずっと簡便で、PCに打ち込んだ文がそのままブログのページになる。なので、詠んだ歌を日記がわりに毎日ブログに掲載する、という歌人もいました。

 そうこうしているうち、ネットの世界でも歌会が開かれたり、新聞投稿ならぬネット投稿が行われたりするようになっていきます。こうなると結社の活動と同様に双方向になりますので、見事にネットコミュニティができあがります。ネットを通じて互いに歌を発表し批評し合ったりするわけです。

 そんなコミュニティのひとつに笹公人が主宰する「笹短歌ドットコム」というのがありました。これは、笹が師範役としてお題(題詠)を出し、ネット上で投稿を募るというサイトでした。笹が、それら集まった投稿歌を選歌し批評するというもので、現在は休止していますが、つい最近まで六年間にわたり活動し、初期の活動は『笹公人の念力短歌トレーニング』(扶桑社、二〇〇八年)として本にまとめられました。これを開くと、夭逝の歌人笹井宏之をはじめ、やすたけまり、山田航、松木秀などが常連の投稿者だったことがわかります。ほかにも、笹の「未来」をはじめ「塔」「かばん」「短歌人」などの結社に入っている歌人が参加しており、多くの若手歌人が結社横断的にワイワイやっている、という雰囲気です。

 そこでの歌風といえば、笹が主宰しているので、おのずとそのような歌が集まってきています。私も何度か参加をしまして、題詠「人形・ぬいぐるみ」では、最優秀をいただいたりしました。

ぱっとみてムックの方が愛情を受けて育った顔をしている      桑原憂太郎

…とまあ、紙媒体の投稿欄でしたら選歌されないようなものも、そこそこ評価をされるのが、ネットの世界なのかもしれません。

 

「かぎろひ」2013年7月号所収